大利にあり。宝永三年密僧天龍なるものゝ編せる記録によれば、社は延暦元年大和国春日大明神の分霊を祭りしものにして、内裏明神と称し、当時は大利山(願立山とも云ふ)上獅子岩の辺にありしを、大同元年阪上田村麿の今の処に移せるなりと。遽に信ずベからず。風土記に載する天文十二年龍穏七世良?(竹冠に均)が記せし緑起に藤原季綱此地に左遷せられし時、其氏神慕ひ来りて、秩父高山の峯に光を放てり。之を毛呂明神となす。季綱依て二所に祀り、此社を内裡明神と称す。何れも採用すベからざる個処甚だ多しと雖、要するに毛呂氏の氏神にして、其古く此地に勧請せられたるを推知するに難からず。然れども毛呂臥龍山の飛来明神との関係明かならず。暫時一体二所分祀の説に従ふも不可ならず。内裡明神の称古くより行はれたり。永禄元年松山城主上田能登守再営、次で内裡明神の名を廃し、春日神社と称す。明治四十年大谷富士塚の浅間、天神、稲荷、同堀内の八幡、同房の神明、同仲ノ谷の住吉、西和田東尾崎の八坂等の諸社を合祀せり。