大谷

大谷(おおや)は西和田の北に接せり。其北方に高砂沼、大亀沼と称する小沼あり。沼にイワヰツルを生ず。村人曰く。此地即ち万葉に所謂、入間路の於保屋我波良にして、地名既に同じく、加ふるにイワヰツルあり。又争ふベからざるなりと。然るに此事は既に武蔵名所考に出でたり。即ち於保屋我波良は大屋ヶ原にして、河原の義にあらずと称し、武蔵志料の説に反対し、然る後に曰く

今入間郡に大谷村あり。村より十余町山を登りて原あり。おほやの原と云伝ふ。俗には、おほやっぱらと云ふ。近き頃までも木立なかりしに、今は松など多く植て原は狭りたれど、猶十余町が程ははれやかなる地にして、赤城日光筑波の諸山見えて勝景なり。原の中に高砂の沼と云ひて十間に二間ばかりの池あり。又大亀の沼とて五反ばかりの池あり。中島に弁才天の社あり。薄葉多く、鯉など産すれど弁天の池なればとて土人之を取らず。万葉にイハヰツラをよみたるは此池より生ぜる藺なるベし云々

と。沼の大さ稍々小に失するのみ。他は今と変らざるが如し。然れども万葉の古歌イハヰツラとあり、必ずしもイワヰツルと同一視するを得ずとは某国語家の説にして、末だ遽に此地を以て古の於保屋我波良となすを得ざる也。

玉正寺

法恩寺に属す。今は堂を存せるのみ。

大谷の小字

堀内、深田氏本家の屋敷を称す。春日井戸なるものあり。聖天社もありき。何人の住せし処なるにや。又春日井戸は地名にも存して松ノ木、春日井戸共に年譜録応永十八年、宝徳元年の文書に見え、春日井戸は一に糟堺土とも記せり。又カマスガ谷と云ふ処あり。宝徳の文書に釜土場、享徳二年の文書に釜土通と記せり。仏堂は六地蔵とも称し、板碑数基あり。