昌福寺跡
法恩寺末にして龍池山と号す。即ち地名の由て起りし大池の跡は此寺の近傍にありし也。
古池は町の最北端にあり。明治二十二年四月までは比企郡に属したりし処也。昔大なる池ありしとやら。
法恩寺末にして龍池山と号す。即ち地名の由て起りし大池の跡は此寺の近傍にありし也。
古池の西南部を田代と称す。古は独立の一村と覚しく。梅園村堂山最勝寺に蔵せし文安三年吾那左衛門尉が釈迦堂領寄附の文に入西郡越生郷怛弘名(つねひろみょう)之内田代村菊間在家土貢八百文と見ゆ。又同寺に蔵せし永禄三年太田美濃守資正の制札に岩崎、上殿分、田代、大間、富塚、山田分と載せたり。其何れも付近の村名、地名に存すれば田代は勿論此地也。然らば其村の古く、文安の頃左工門尉憲光、永禄の頃は太田資正に領せられしを知るベし。