梅園神社
元天神社と称し、古社にして観応、応永、嘉吉、長禄文明、長亨、永正、天文、天正、慶長、寛永等の棟札を蔵す。旧別当大泉院は山本坊配下の古き修験にして、其屋宇所謂手斧打ちの大柱を用ゐたり。今は即ち神職たり。明治四十年付近の諸社を合し、名を改めて梅園神社と呼ぶ。
小杉は津久根の西南、堂山の南にあり、越辺川の両岸を占め、山高く水清し。
元天神社と称し、古社にして観応、応永、嘉吉、長禄文明、長亨、永正、天文、天正、慶長、寛永等の棟札を蔵す。旧別当大泉院は山本坊配下の古き修験にして、其屋宇所謂手斧打ちの大柱を用ゐたり。今は即ち神職たり。明治四十年付近の諸社を合し、名を改めて梅園神社と呼ぶ。
村役場の東方に位し、小杉将監なるものゝ開基と伝ふ。将監は永禄元年没せりと云ふ、創立の頃臨済宗に属せしも、後龍穏寺末となり曹洞宗となる、本堂あり。薬師堂あり。
開基は手島佐渡守と云ふ。後龍穏寺に属す。
越辺川の左岸にあり。寺後は丘陵也。越生山と号し、太田道真の開基と伝ふ。古老の説に寺は元越路房と称する処にありしを此地に移し、龍穏寺末とせしなりと云ふ。越路房は此地を去る遠からず。寺堂明治三十五年焼失し、今は仮舎を設く、見るべきものなし。
健康寺付近にして、後は丘陵を控へ、前は越辺川に臨み、土地狭隘なれども、稍高くして平也。陣屋と呼ぶ処あり。付近に道灌橋あり、道灌馬場あり。館は少くとも道灌没後父道真が遁棲せし処、或は恐らくは道灌道真共に其全盛の頃此地に住せしならん。懐古の情切也。
抽の木谷にあり。戦国の末、小杉将監の住せし処也。