龍ヶ谷

龍ヶ谷(たつがや)は大満の西南、黒山の西北に位し、越辺川枝流龍ヶ谷川の深谷にして、長く西方に突入せり。正保の頃の書に今市村の内龍穏寺領と見え、元禄の国図に龍ヶ谷村の名あらはる。龍ヶ谷の名称及羅漢山に関する物語は共に地名伝説也。

熊野神社

裏山にあり。村社。

龍穏寺

中央部に位す、郡内曹洞の大寺にして、後は山を廻らし、前は渓流に臨み、山間の名刹也、宝暦年間火災に罹りしも、寺堂雄大、表門の厳然たる楼門の華麗なる、自然石石燈籠の巨大なる、本堂庫裡等の堂々たる、訪ふものをして山中此大伽藍あるに驚かしむ。長昌山と号す。古は瑞雲山と号し、門外堂沢と称する地方に寺堂を設けたりきと云ふ。永亨の頃足利義教の開基と称すれど、恐らくは太田氏などが上杉持朝若くは足利義教の名によりて建立せし者ならん。或は太田氏以前小堂若くは小庵などの存せしやも計られず、江戸時代は朱印百石、頗る盛大なりき。秩父高山不動は寺の奥院なりとの説あり。東京麻布に宿寺を設く。関東曹洞の三大利也。天正以後の古文書若干あり。東に三枝庵跡あり。太田道真の住せし処なりと云ふ。

菩提院跡

龍穏寺の末にて、五十二三年前の設立也。人呼で新寺と名く。近年廃寺となり寺堂を去れり。