武蔵は、我邦東方の大国にして、之を山海の二道に視るも交会の要枢にあたり、又、坂関の八州に於いては富強の称首たり。 而して入間郡は、其中央に居り、実に武蔵野の奥区とす。 古人の謂はゆる「四方八百里の草の原、月の入るべき山も無し」、此地中世までの莽蒼たる光景は、想ふにも余りあり。 近世に至りては、河越を其大邑とし、江戸幕府近世の重鎮たり。 予は去年河越に遊びて、該郡の勝跡を訪ひ遺事を聞き、其古今の大略を得たり、則ますヽ地理と人事の相待ちて盛衰囚果する所あるを覚り、感慨之を久しくす。 上古史伝の口誦に拠れば、武蔵と秩父は相分ち、而も其武蔵は又三水の区域を備ふ、多摩川、入間川、秩父荒川是なり。 入間の一路は万葉集に伊利麻治といひ、入間より豊島、足立にわたる地域を泛称するも可なり。 上古の部族、此間に繁栄せる者、天孫出雲氏、天神物部氏等ありて、草莱開拓の首功を立つ。 入間に在りては、氷川神といふ(郡家の遺称ある久下戸村に存す)即出雲氏の氏神なり、三芳野神社といふは、軈て安刀物部の氏神ならむ。 国郡制置の初め、武蔵は山道に属せしめられ、国府を多摩郡に置かる。 而して其閑地には高麗新羅の帰化人を移住せしめらるゝや、入間郡の左右の辺裔を割きたるものの如し、所謂高麗郡、新羅(後世新座と改む)郡是なり。 蕃種の特殊殖民は、我歴史にも古今稀有の一例とす、其始末、亦多少の論証すべきものあり、其後、武蔵は東海道に転属し、官道、駅路は豊島郡へ移るも、多摩府より上野、下野への山道を連絡するには、依然として入間郡を横過せる如し。 安刀郷は上戸と訛ると雖、在原業平の東国旅行、「たのむの雁」の古塚を伝ふるにあらずや。 是は、口誦時代の遺跡と文献時代の逸事を混淆すと雖、採訪者は当に別に観る所あるべし。 中世武士の競ひ起るに及び、河越、江戸の二庄(新日吉社領なれば延暦寺妙法院を本家とせる歟)山海両道に当りて開発せられ、共に本州留守所総検校平重綱の経営に係るに似たり。 やがて、河越江戸の二家を生じたり。 当時、河越氏は殊に武蔵諸党の高家に推されたるを見れば、坂東平氏の巨魁なりけむ。 鎌倉幕府は畠山重忠を任用し、河越重頼江戸重長の二氏稍衰ふ、而も畠山氏も二代にして替り、(足利源氏に変化す)河越氏は本州の高家として、独久しく其名を保てり。 凡、河越、江戸の二地頭家を比較するに、中世に於て河越固より本宗にして又盛栄す、江戸は遜色を免れず。 武蔵野の大戦しばヽあるに及び、山道海道、共に兵馬の馳駆を見る。 而も、多摩府と毛信北国との通路か、山道に由るを以て、軍事上には、毎に入間川宿を以て重要と為す、形勢想ふべし。 但し、河越庄の旧地頭家は、此間に衰滅し、上杉氏の雄を称し覇を図るに至れば、東国の江山皆戦図に入り、干戈連年なり。 上杉の将太田氏が、河越、江戸、岩槻に築塁して、古河公方(足利氏)に対抗したるは、実に長禄中の事にして、安刀郷の河越を転じて山田郷に移したるも、此時といふ。 当時、鎌倉焚毀せられて赤土に殆し、東国の文物と繁華は、消散の運に在り。 その幸にして扇谷上杉氏の君臣に従ひて保たるゝ者は、之を河越、もしくは江戸に留存したるのみ。 是より河越は、其上越なる山内上杉氏との通路を維持するの地なれば、殊に重鎮に推され、此の形勢は天文天正年中に及ぶも変せず。 上杉太田氏敗亡するも、大道寺氏は小田原北条家の代将として之れに居り、屹と武州の首府たり、江戸、岩槻、瀧山(八王子)鉢形等に凌駕して、其上に在り。 且、関左の文教権が、仙波喜多院の天海僧正、蓮馨寺の感誉上人越生龍穏寺の良加和尚等に囚りて、之を河越に保持せられしことを考ふれば、鎌倉の文物繁栄は、必しも小田原に移れるに非ず、むしろ之を河越に求むべきに似たり。 地理と人事の関係、深く省察せざるべからず。 已にして、小田原城陷り、徳川氏江戸に入部し、形勢此に大一変す。 江戸は一躍して東国の首府となり、再起しては天下の大都と為る。 河越は復之と竸ふ能はず、是より其近郡の鎮所たるに過ぎず。 之に加ふるに、江戸を中心とする交通路は、中山道を足立郡(浦和大宮)に擇みしより、河越は全く偏隅孤立の一邑に変す。 爾後治水の上(秩父荒川を入間川に合流又玉川上水を郡内に分つ)産業の上に、近世幾多の善政奇功を施したりと雖、大勢に於いて回す所無し、囚循以て今日に至る、豈感慨の情なからむや。 大正改元の十月、たまヽ入間郡誌の刊行を聞き、所思抑へ難く、やがて拙文を草して之に贈呈し、同好者の一読を希ふといふのみ。
吉田東伍