鎌倉時代

時代の推移

天慶に於ける将門の乱は藤原秀郷、平貞盛の勢力を東国に延し、其同族にして先是、東国に土着せるものも益々繁栄し、長元に於ける平忠常の反は源頼信の勢力を東国に賦植し、前九年後三年の役後に至ては、源氏の勢牢として抜くべからざるに至れり。 保元平治の二役、源氏の旗風振ふ能はずして、天下は一たび平家の有に帰し、源家層恩の東国武士も稍平氏の門に馳せたるありと雖、多数は依然として、剛健なる気象を失はず、所謂東国武士の本領を純に保存して、而して一意伊豆の天に其所謂「佐殿」の起つを待ちたりき。

既にして頼朝兵を起し、総武を席捲して、相模に入らんとするや、東国の将士争ふて之に馳す。 郡内諸豪の如き亦其中にあり。 かくて鎌倉の覇府成り、世は将軍政治、即ち東国武士に養はれたる素朴純潔なる気象を以て、浮華輕跳にして危険なる平安朝文明矯正の時代となれり。

七党及川越氏

王朝時代の国守郡守等にして地方に留りしものは、庄園の制を利用し、戎器を蓄へ、家人郎党を養ひ、村里の政を行ひ、牧場を監し、或は京師に出てゝ大番を勤め、地歩を漸く固くして、一族頗る蔓延せり、其武蔵にありしもの、即所謂武蔵七党にして、横山、猪俣、野与、村山、西、児玉、丹治の七族の如き是也。

七党にして入間郡に拠地を占めしものは、村山、丹治、児玉の三党とす。

村山党は平氏にして、秩父家(畠山重忠等一門)と同族也。 村山貫主頼任に始まり、子孫多摩郡より、入間郡南部に散在し、大井、宮寺、金子、山口、黒須、久米、仙波、広屋、荒波多、難波田等の諸分派あり。

丹党は武蔵守多治比県主に出て、郡内加治郷の如きは其中心地たりしものゝ如く、 青木、小島(?)、志水(?)柏原、高麗、加治、判乃等の分派ありて、秩父児玉比企大里諸郡にも及ベり。 児玉党は武蔵守有道惟行に出て、児玉郡を中心として、郡内には入西、浅羽、堀籠、ここ ?)越生、大類等の分派来り住せしが如し。

右の外坂東八平氏、秩父家の一派に川越氏あり。 藤原季綱に出でたる毛呂氏あり。 日蓮上人に関係ある宿谷氏も来り住せりと称す。 何れも同名の土地を根拠として、夫々付近に勢力を振ひたるに似たり。

鎌倉時代の経過

頼朝鎌倉に拠り、義仲京師にありて不和となるに及び、義仲の子清水冠者義高鎌倉を遁れ、入間川に至て遂に討たる。 其後七党以下諸豪族の力により、鎌倉時代の幕開けて、天下武門の政治となり、頼朝義経の不和は川越氏の地位を甚だしく不可ならしめたりと雖、其後家名を断絶せずして南北朝の頃に及ぶを得たり。

先之建久四年那須野に狩するの途、頼朝諸将を卒て、入間野に追鳥狩を行へることあり。 其後富士野に狩す。 当時幕府は平穏無事にして、頼朝の黄金時代たりし也。

頼朝の復古政策、鎌倉幕府の復古政策は時代の精神に伴ひ敬神崇仏の信仰を進め、殊に社寺の造営を盛にし、八幡神社は殆ど源氏乃至源家の武士の氏神の如く、豪族の館には又其傍に仏寺の建立あるを常とせり。 禅、浄土、日蓮等の新宗数勃興して、日本に於ける宗教改革とも称すベき時期は此頃なりし也。

北条氏天下を掌握するの前後、七党の中、聊か断絶或は興隆あり。 泰時に至ては武蔵野の開拓に着手し多摩入間両郡の如き頗る面目を改めたるものゝ如く、之を要するに鎌倉時代は北条氏善政の下に郡内の地方も平穏にして比較的繁栄せしものゝ如し。