北条氏の時代漸く傾きしも、後醍醐天皇の雄図一たび挫け、関東の大軍は金剛山こみたりしが、源家の名門として、当時に重きを成せし足利尊氏は漸く志を帝に傾け、而して新田義貞は上野に兵を起し、鎌倉に向て進発せり。
太平記の伝ふる所によれば、義貞は五月八日義旗を立て、九日武蔵に出て、所謂鎌倉街迸を進て、十日夕刻には入間川付近に達せしものゝ如く、北条氏の将桜田貞国等と十一日小手指ヶ原に戦ひ、勝敗決せず、十二日に至て、貞国敗れ、加治二郎左衛門等先づ走りしと雖も、十五日分陪に戦ふに及び、義貞敗軍して掘金に退かざるを得ざるに至り、偶々投ずるものあるに依り、十六日早朝貞国の軍を突て、大に之を破り、急馳追撃して十七日藤沢に迫り、十八日遂に鎌倉に至りしが如し。
然れども太平記の載する所聊か疑ふベき点なきにしもあらず。 或は極端の論者は此合戦は武蔵野の蜃気楼なりと云へり。
今は太平記に従ヘり。