顕家の西上

其後尊氏鎌倉に叛し、義貞之を討て勝たず。 尊氏兵を将て京師を奪ひ、一たび九州に追はれしも、後大挙して東上し、正成戦没し、義貞破れ、南朝の勢危急なるものあり。 此に於て延元二年北畠顕家は義良親王を奉して、奥州より南下し、利根川に戦ひ、殆武蔵を席捲して、鎌倉を圧倒し、更に西に向ふ。 此時の合戦は直接郡内に及ばざりしと雖、八州の諸豪響応し鎌倉の足利義詮殆ど顔色無かりし也。 又太平記によれば新田義貞の次男徳寿丸上野に起て、兵を入間川に進め着到をつけたること見えたり。