羽禰倉及阿須垣原の小戦

其後北畠親房は東国の経略に従ひしも、高師冬等に妨げられて、志を伸ふる能はず。 既にして尊氏直義不和の事あり。 直義鎌倉に拠りて叛す。 尊氏之を伐たんがため、正平六年十一月関東に向ひ、遂に駿州薩垂山に囲まれしが、十二月下野の宇都宮氏は尊氏に応ぜんがため、武蔵に進出し、那波庄の戦あり。 先是、高麗彦四郎経澄等は宇都宮軍別働隊の一将として、十二月十七一日鬼窪(南埼玉郡)に旗を挙げ、十八日出発して、十九日羽禰蔵に難波田九郎三郎等を伐ち、其夜進て阿須垣原に陣し、甚だ戦功ありしこと新堀村町田氏文書に見ゆ。 羽禰蔵は羽根倉にて今宗岡村の小字なるベく、阿須垣原はそれ阿須崖原か、其時の敵手は武蔵守護代にして、直義方なる吉江新左衛門ならん。