正平六年十一月尊氏関東へ下るに臨て、仮りに和を南朝に請ひ、南朝も諜る所ありて之を許す。 既にして尊氏鎌倉に入るに及て、南朝の将士は東西同時に起て、尊氏及義詮を伐てり。 正平七年閠二月武蔵野の合戦は太平記にょれば、先是久しく上信越の地方に隠れし新田義宗、義興、義治は大命を奉じ、三浦石堂等旧の直義派の内応を得て、閠二月八日西上野に出て、やがて武蔵野に殺到せり。 然るに尊氏十六日を以て鎌倉を出て、武蔵に入り、三浦石堂の内応を知り、 二十日を以て小手指原に戦ひ、義宗一たび勝て、尊氏に迫りしも、後援続かず。 義興義治の軍は三浦石堂と合して鎌倉に向ひ、義宗遂に笛吹峠に退き、二十八日尊氏と戦ひ、笛吹峠を退却す。 此役宗良親王も後より進て、義宗の軍に会せしが如し。
然るに更に稍々正確なる史料によりて、太平記を批判するに、頗る修正せざるべがらざる所あるものゝ如く、議論紛々たれども、大日本地名辞典に載せたる吉田博士の断案は頗る傾聴すべきものあり。 依て大体其説に従て、太平記の記事を是正し置かん。
正平七年閠二月十五日(園太暦に従ふ)義宗等義兵を上野に挙げ、翌十六日武蔵に進出し、大凡府中付近と覚しき処より十九日附注進状を発す。 但其記す所誇大なるやの嫌あり。 一方尊氏は十七日(町田文書其他の軍忠状に従ふ)鎌倉を発し、狩野川即ち今の神奈川と信ぜらるゝ処に陣し、十九日谷口に進む。 然るに義宗の軍は此日義興義治をして鎌倉に向はしめ、義宗狩野川に進まんとしたりしが、二十日尊氏の軍府中に進出し来りしかば、義宗之を伐て人見ヶ原(若くは金井原と云ひ、若くは国府原と云ふ。 多摩郡にあり)に戦ひ、利あらずして、入間川に退く。 而して義興義治の軍は三浦石堂等と合して、二十三日鎌倉を取る、義宗宗良裂王を奉じて入間川に陣し、尊氏府中近傍に陣し、対峙すること一週日、二十八日に至て両軍小手指ヶ原に戦ひ、義宗退き、尊氏之を追ふて、漸次入間川原高麗原等の戦となり、遂に義宗志を得ずして、南朝の荘図空しく武蔵原頭の露と消えたりし也。 然れども小手指の一戦、太平記叙する所の花一揆の史話の如きは優雅荘烈、伝へて以て後世の士気を鼓舞するに足る。