尊氏武蔵野に克ちて、鎌倉を恢復し、二子基氏を残して西上せり。 基氏は戦勝の勢に乗じて、関東の将士を撫し、比較的よく士心を得たり。
曽て入間川に営し、入間川殿と称せらる。 正平十三年新田義興を矢口に誘殺し、十六年畠山国清の叛を平げ、十八年(北朝の貞治二年)八月芳賀入道禅可の叛を平げんがため、進発し、苦林野及岩殿山地方に於て戦ひ之を破り、与党を鎮定せしが、二十二年二月宮方平一揆、兵を起して川越館に拠る、基氏征せんとして病あり、依て上杉憲顕、基氏の子氏満を奉じて、川越を攻め、閠六月十七日に至て之を陷る。 蓋し宮方平一揆は所領の不平を直接の動機として発せるものゝ如く、川越氏の如き、山口氏の如きは其主なるものなりしに似たり。 而して基氏は既に四月二十六日を以て卒したり。