室町及戦国時代
氏満応永五年卒し、満兼立ち、自ら公方と称し、執事を管領と呼ばしむ、此時に当て上杉氏既に山内及犬懸の二家あり。
既にして満兼応永十六年卒して、子持氏立つや、驕傲にして軽躁、二十三年に至て遂に犬懸禅秀(上杉氏憲)の変あり。
此時入間川は数次合戦若くは対陣場となれり。
然るに室町には義持及義教頗る関東の権を殺がんの志あり、持氏は又義教の将軍たりしに平ならず。
此に於て上杉憲実其邑白井に退き、持氏之を攻めしも、京師の討伐軍来るに及て、持氏遂に勢屈して自刄す。
時に永享十一年二月十日也。
而して其子春王等結城氏に依りしものも、嘉吉元年に至て咸捕へられ殺さる、上杉は犬懸倒れて扇谷新に起れり。
此後関東は主なかりしかば、宝徳元年上杉房定等、持氏の遺孤永寿王を推戴し、之を成氏と称す。
上杉憲実遁世し、扇谷持朝入道して河越館に退く。
成氏上杉氏を以て父の仇とし、里見結城諸氏を用ゐしかば、先づ上杉氏の臣長尾太田との軋轢始まり、次で上杉氏も成氏と対抗し、争乱数年成氏遂に古河に走り、康正元年より三年に至るまで分陪、岡部、騎西、市川、深谷等諸処に戦あり。
長禄元年に至て扇谷持朝は河越に築き、太田資清は岩槻に築き、太田持資は江戸に築き渋川義鏡を蕨に奉し、次で足利政知を堀越に戴きて古河に対するの計を為せり。
室町幕府は屡々古河討伐の命を関東奥羽に出せり。
かくて上杉の宗家山内は上野白井に根拠を設け、藤岡、八幡山、深谷等の諸城を支持し、扇谷は河越に居り、岩槻、蕨、江戸等の諸城を有して、古河に備へ、古河は羽生、忍、騎西、菖蒲、関宿等に構へ、而して両軍の対抗陣地は、白井と古河の中間、児玉郡東五十子たりし也。
之を以て文正元年の頃第一次対陣あり。
文明三年第二次対陣あり、伊豆方面にも戦あり、文明九年第三次対陣あり。
既にして山内顕定の臣長尾景春鉢形に拠り、南武の豊鳥、練馬、相模の小沢、横山、小机、丸子、平塚、溝呂木、小磯等と通じて上杉氏に叛し、一時頗る勢力を振ひしも、太田持資等克て之を平げたり。
此役の始川越は太田図書助資忠、上田上野介松山衆を籠め、長尾方は若井(?)に陣して之に対し、やがて勝原(ヌグロハラ?)に戦て長尾方敗れたり。
而して始終の経過行動に見る時は川越は扇谷の策源地たりしの観あり。
而して此時上杉は古河と和したり。
江戸を築城し、長尾の乱を鎮定し、雄名を関東に轟かしたる太田道灌は後兵を下総に用ゐて、益々偉功を奏し江戸、川越を堅くして秘に山内の変に備へしが偶々扇谷定正の忌憚する所となり文明十八年七月遂に其殺す所となれり。
而して翌年より山内対扇谷の激裂なる対抗始まり諸所に合戦あり。
扇谷定正は河越に子朝良及曾我兵庫頭を置き、江戸に曾我豊後守を置き小田原に大森式部を置て山内に当らんとせり。
河越に対して山内が上戸に砦を設けたるが如き、此時也。
長享二年定正松山城に拠り顕定兵を卒て之に向ふ延徳二年定正古河公方の援を得て高見原(比企郡)に顕定を破り、明応三年定正武州関戸の塁を破り、伊豆の北条長氏と久米川に会し、共に兵を卒て高見原に陣し、顕定と荒川を隔てゝ相対す。
而して定正陣中に没せり。
定正が長氏の援を得たるに当て、顕定は政氏の援を得たると覚しく、明応四年十月政氏顕定を救けて高倉(鶴島村)に陣し、五年五月柏原に陣す。
蓋し顕定川越を攻め、政氏此処に拠りて相州地方よりの来援に備へしものならん。
永正元年九月顕定復川越を攻む抜けず依て江戸を囲む。
今川氏親北条長氏兵を府中に出して扇谷を救ふ。
其先鋒増形(日東村)に陣せりと云ふ。
顕定之をきゝ軍を返して立河原に戦ひ敗蹟せり。
かくて道灌没後、両上杉互に争ひ約二十年を経て永正二年相和したる時は、北条長氏既に小田原に拠りて、勢威漸く旺盛ならんとす。
北条長氏は延徳三年堀越茶々丸を殺して伊立を取り、明応四年二月、大森実頼を訛て小田原を奪ひ、永正元年九月今川氏親と立川に扇谷朝良を扶けて、山内顕定を破りしが、其後専ら相模の平定に力を用ゐ、山内は越後に長尾の叛あり、古河は政氏高基父子の不和あり、高基は北条氏に依らんとし政氏は里見上杉に依る。
而して政氏久喜に退隠せり。
永正十六年長氏卒し、氏綱嗣ぎ、鋭意武蔵の攻略に着手し、一年を隔てゝ、大永元年には婚を古河高基の子晴氏に通じ、両上杉の形勢を窺ふと切也。
既にして大永四年江戸城の将士内応せるものあり、氏綱直に赴て之を伐ち、江戸高輪に戦て、朝興を破り、城に入るを得ずして川越に奔らしむ、其後朝興恢復の師を起せしも志を得ず、天文六年川越に卒す。
子朝定立ち、叔父朝成之を扶け、勢力の恢復を計り、先づ深大寺城を築て北条氏に当らんとせしが、氏綱急に江戸より川越に向ひ、上杉氏の軍と三ッ木ヶ原(堀兼村)に戦ひ、大に之を破り、朝成を擒にし、朝定を走らしむ。
朝定川越に入りしも支ふる能はず、松山に逃れ、其城将難波田弾正父子等と川越を復せんとせしが、反て氏綱に囲まる、然も氏綱急に降し難きを見て、去れり。
山内憲房は鉢形にありて扇谷の後援に任ぜしが、大永五年病没し、遺臣古河政氏の子息寛を迎へて主とせしも、永続せずして止み、憲房の子憲政嗣ぐ。
憲政は放縦なり。
天文六年川越陥り、上杉氏危急なるを見、恢復の師を出すに決し、切に古河晴氏を説きて北条と絶たしめ、天文十四年九月憲政朝定の兵八万川越を囲み、砂窪(福原村)に陣す。
十月晴氏も亦至る。
翌年四月北条氏康八千の兵を以て川越に来り、上杉の軍を夜襲して、大に之を敗り、城兵は睛氏の軍を突けり。
朝定、難波田父子等戦死し、憲政平井に逃れ、晴氏古河に走る。
氏康勢に乗じて松山を屠り、勢威関東に振ふ。
秩父の藤田氏、瀧山の大石氏等咸氏康に属せり。
独り岩槻の太田三楽志を上杉氏に寄せ、一たび松山城を恢復せり。
かくて天文二十年氏康上武の境に迫るに及び上杉憲政越後に逃れて、長尾謙信に依りぬ。
上杉氏殆ど滅べり。
氏康は更に古河公方、里見氏等に対して夫々手段を講ずる所あり。
又諸子を各地に派して、小田原と気脈を通ぜしめ、かくて関東の西半を奄有したりしも天文の末より弘治永禄に至るまで、甲越両州の勢力亦関東に及び、上武の地方は屡々三氏抗争の地点となり、松山、羽生、忍、深谷諸城の如きは所属一定せず。
天文二十三年氏康は信玄と結びて謙信に当り、謙信も関東に下り、一たび小田原を囲みしも、志を達せざりき、永禄十二年に至り信玄は盟約を破棄し、八月兵を上野に入れ、武蔵に用ゐ、鉢形を攻めて、更に小田原に向て南下し、郡内の地をも通過せり。
而も小田原陷らざりき。
かくて上杉北条の連合成りしが、元亀三年に至て復破れ、北条氏は鋭意して上野の蚕食に従ひぬ。
斯の如く辺境には攻争頻りに行はれしも、郡内の地方は天文十五年以来殆ど確実に北条氏の手に保有せられ、庶民太平の善政に頗る繁栄に向はんとしたるものゝ如し、即ち川越城は大導寺駿河守に保有せられ、川越城下町も発達し、柳瀬村城には瀧山城主北条氏照の麾下太田氏あり。
柳瀬川付近の地漸く発展に向ヘり。
其他北条役帳によれば郡内至る所、何れも北条麾下の将士に知行されたりしを知る。
当時入東部、入西部の目あり。
蓋し入間を二分せし也。
而して知行高は貫文を以てあらはせり。
(役帳に見えたる所は各町村の部に出せり。
尚役帳は永禄二年二月頃の現在なるが如し)
天正十八年豊臣秀吉小田原を囲むに及で、川越も柳瀬も共に戦なくして開城せり。
川越の大導寺駿河守は上州松枝城を守り、松枝開城するに及で、川越をも開城せしめたり。
而して七月十九日を以て死す。
其霊牌名細村上戸、常楽寺にあり、墓石もあり。
然も川越容易に降ると雖、松山陷らず、山道口の大将前田利家等之を攻む、越生町上野医王寺には利家陣地たりし伝説あり。