土地

徳川氏の時代に当ては、全国の土地を直轄地、領地、采地、及社寺領に分てり。 直轄地は所謂天領にして、幕府に直隸し、代官之を支配するに由て、支配地と名け、領地は所謂大名之を如し、采地は麾下の士の知行、寺社領は朱印を以て社寺に附与せし土地を云ふ。

此等の各領何れも領主乃至代官を変更すると頻繁にして、川越城も城主を替ふると八家、二十一代、柳瀬村本郷の如きは、代官を改むると、元禄三年より維新の時に至るまで、実に三十七人、地頭(采地の主)の如きも之に凖ず。 又管轄の変更甚だしく、或は川越領となり、或は釆地となり、支配地となり、田安家領となり、或は古河領、岩槻領、前橋領、佐倉領等となるもあり。 故に精密なる管轄沿革志は今より到底之を望むベがらざる也。 風土記にすら尚錯誤遺漏甚だ多し。

検地は後北条氏の頃既に行はれ、北条役帳に乙卯検地、若くは卯検地と見ゆるは、蓋し弘治元年に行はれたる検地を謂ふ。 其後天正五年にも行はれし処あり、徳川氏に至て天正十九年に行はれし処あり、其後頻りに行はれ、或は一村にして開拓に従て局部の検地続々行はるゝあり。 然れども概括して検地の盛に行てはれしは正保、慶安、延宝、元禄、乃至天保なりとす。 検地帳、(水帳)は往々にし当時名主を勤めし旧家に存す。

今正保年代の田園簿を見るに、旧入間郡の村落百八十八、六万千七百五十四石四斗余、旧高麗郡の村落八十四、一万九千九百三十七石七斗余なりしもの、元禄十五年には旧入間郡二百四十三個村、七万四千五百九十九石九斗余、旧高麗郡百五個村、二万五千四百六十六石九斗余となり、天保五年に至ては旧入間郡二百六十一個村、十万二百五十石余、旧高麗郡百五個村、二万七千四百八十五石四斗余となれり。 以て村落の愈々増し、耕地の頗る開墾せられたりしを知るベし。

耕地の開墾、即ち新田地は郡内至る所にあり、敢て珍しきにあらずと雖、福原堀兼、入間、富岡三芳諸村に亘る彼の武蔵野の開墾の如きは甚だ大規模に行はれたり。 殊に三富、両永井の如き、村落の堂々として、六間道と称する大道を設けて、且人馬を通じ、且境界に当て、多福寺、多聞寺の如き此較的大なる寺院巍然として存在せるを見ば、当年の事決して之を軽蔑し去る能はざる也。

鶴ヶ島村高倉に住せし代官川崎定孝の如きも頗る拓地興業に力あり。

記線に存せるを見たるにあらざれども、検地乃至開拓に件ひて勿論行はれたりと認むベきは、郡内各村にして、往々宅地段別の整然として、一定せる事是也。 例へば入間川市街の如き、入間村地方の如き、 既に頗る崩解したるものありと雖、其本来一定の段別を以て住地を定めたるは何人も之を認むる所、鶴ヶ島村高倉堀兼村堀兼の如きは尚稍々明に之を認むベく、 其他数へ来れば、頗る多きを見る。

耕地の間往々にして秣場あり、多くは荒蕪地若くは丘上、丘側の地を以て之に充つ。 秣場は大抵数ヶ村若くは十数ヶ村の入会地にして、屡々訴訟問題の因となれり。 武蔵野、阿須、石坂山(入西、今は比企郡に入る)等は其主なるものなりとす。

治水、及灌漑等も漸く行はれ、入間川の河道開鑿、荒川の移転を始めとし、小なるものに至ては蓋し少きにあらざらん。 掘割も各地甚だ多く、赤間川の如きは就中其大なるもの也。 野火止用水、並びに伊呂波樋の如きは、就中其著しきもの也。 新河岸川の如きも亦頗る人工を加へたると疑ふベからず。