下富
下富は村の北部に当り、東西一里、南北八町余、人家約百戸あり。 古は茫々たる武蔵野の曠野なりしが、元禄九年五月より(名主広右衡門の先祖、大袋新田より来て)開発し、同十九年松平美濃守の検地あり、川越領として、明治時代に至れり。 明治四年入間県(第三大区六小区)十七年神米金村連合戸長場場に属し明治二十二年より富岡村となるに至れり。
八坂神社
八坂神社(十八軒屋)
字十八軒屋にあり、私有也
富岡(トミオカ)村は所沢町の北に連り、小手指、三ヶ島、入間、堀兼、福原、三芳、柳瀬、松井、諸村その東北西を囲続せり。 土地概ね高燥平坦、丘陵なく水流なし。 唯一時の雨水を通ずべき溝渠三ヶ島より来り村の中央以東に至りて消ゆ。 軽鬆なる腐植土より成る。 陸田多く、森林之に次ぐ、麦茶甘藷を以て主なる物産とす。 川越鉄道は村の西北部を通過し、川越所沢街道、豊岡所沢街道、大宮所沢街道(以上県道)入間川所沢街道(里道)は何れも村内を通過して所沢町に向へり。 戸数一百三十八、人口三千七百十六、神米金(カメガネ)、中富(ナカトメ)、下富(シモトメ)、北岩岡、北中、所沢の六大字より成る。
富岡村地方は郡内に於て最も新しき村落にして、武蔵野の曠野より、漸く耕鋤用ゐらるゝに至りしもの、古きも元禄、新しきは元文宝暦の頃にあり。 其沿革の如きも、便宜上各部落に分説せん。
下富は村の北部に当り、東西一里、南北八町余、人家約百戸あり。 古は茫々たる武蔵野の曠野なりしが、元禄九年五月より(名主広右衡門の先祖、大袋新田より来て)開発し、同十九年松平美濃守の検地あり、川越領として、明治時代に至れり。 明治四年入間県(第三大区六小区)十七年神米金村連合戸長場場に属し明治二十二年より富岡村となるに至れり。
字十八軒屋にあり、私有也
中富は村の東部に位し、東西十五六町、南北十町内外、戸数百、元禄七年(亀久保村の民喜平次と云へるもの来り開発す)より開墾に着手し、同九年の頃より村落の体裁をなすに至れり。 同年検地行はる。 川越城に属し、明治以後下富に同じ。
村の北方、字月の原と云ふ処にあり。 宝暦八年六月の創建也。 中富及下富の鎮守なりしを近来富岡村中の神社(但北中の小手指明神だけは小手指村北野神社に合する筈)全部を合祀し、村の総鎮守とせり。 境内毘沙門堂及多聞院に連り、広濶にして、桜樹十数本春を待てり。
月の原にあり。 新義真言宗にして、四谷愛染院末、宝塔山吉祥寺と号す。 元禄九年の開創にして、開基は柳沢出羽守、開山は本山第四世栄仁也。 現住を柳沢弘真と云ふ。 創立当時の寺観にして、唯山門を失ひたるのみ。 傍に毘沙門堂あり。
多聞院境内にあり。 毘沙門天は古老の伝説によれば、武田信玄の守本尊にして、柳沢出羽守の安置せる所なりといふ。 信者多し。
神米金(カメカネ)は村の中央に位し、川越街道の東西に拠れり。 元文元年十二月開墾して、武蔵野新田と称し、山口領の内に属せり。 徳川氏に直隷し、六十石、代官には上坂安右衛門あり。 後大岡越前守も此地を管せしとあり。 宝暦八年十月検地あり。 代官伊奈平左衛門之を行ふ。 而して伊奈氏代官となり、其後江川太郎左衛門も此地を支配せしことあり。 維新以来は明治元年八月知県事の支配地となり、二年品川県、韮山県、四年入間県(第三大区一小区)九年埼玉県、十七年神米金村連合戸長役場に属せり。 村は元久米新田、神谷神田、堀兼新田の三独立村より成りしが、明治九年一月八日改租の際之を合して、神米金と称せる也。
比企郡吉見村の農民神谷氏開墾せりと云ふ。
北岩岡は村の西部に位し、古は山口領にして、徳川氏の直轄也。 二百二十四石を出せり。 明治以後の変遷、神米金に同じ。 (但三大区二小区)
元北田新田、岩岡新田、氷川新田の三部落なりしを、明治九年改租に際し、合して北岩岡と称せるなり。
所沢より北田氏来て開墾す。
山口村岩岡氏の開けるにや。
山口村氷川の新田也。
字横松にあり、村社にして、氏子は北岩岡の北組也。 近来神明社に合す。
村の西南部にして、北岩岡の南にあり。 宝暦中の開発にして、山口領、徳川氏に属す。 代官の支配地なり。 明治以後北岩岡に合じ。 元、北野新田、川辺新田、中北野新田の三部落なりしが、明治九年合して北中と称す。
小手指村北野の新田也。
神米金の南にあり。 山口領にして、徳川氏に属す。 其他前村に同じ。
村社にして。 創建不明、今は神明社に合せり。