訴訟及災禍

江戸時代は人文の比較的徴すべきもの多きがためにや、訴訟及天災地変等にして比鮫的後世に伝へられたるもの少からず。

訴訟に関しては秣場境界寺院に関するもの多し。 慶長十二年二月十一日的場村鯨井村の民原野の境界に争ひ、此日幕府之を裁したる文書、鯨井神山氏にあり、大日本史料にも見えたり。 其外慶安二年及貞享四年武蔵野新田に関する訴訟、元禄七年上富開墾地、武蔵野秣場に関する訴訟、文政元年石坂山(今は比企郡に入る)に関する訴訟等あり。 寺院及壇徒等の争の如きは決して珍しからざる也。 災異には元禄十年大地震あり。 十六年復関東地大に震ふ。 寛永元年利根川洪水、四年遠江に地震あり、次で富士山噴火し、山腹に寛永山を作る。 寛保年間の水災には奥貫友山慈善の事あり、天明三年浅間山噴火しゝ被害方四十里に及び死者多し、六年大洪水あり。 隅田川の如きは一週日にして水漸く滅ず、七年江戸町民の蜂起あり、寛政二年大風雨出水、天保四年大風雨、五年飢饉嘉永六年地震あり、斯の如きは偶々史に見えたるものを拾へるのみ。 暴徒も西より来て川越付近を荒涼したるとありき。 川越以下火災も少からず。

茲に今日にありて珍とすべきは江戸時代の中頃まで猪狩の行はれたりしと是也。 植木村鹿飼はシゝダメとも称せられ、宮寺三ヶ島山口三村の境には猪落し穴あり、 大田村豊田新田の大堀山には猛獣(恐らく猪)出現の朧ろなる伝説あり。 川越廓町北野氏の日誌には享保年間、柏原村武蔵野に於て猪狩を行へること見えたりと云ふ。 猪既に住す。 狐狸をや鹿兎をや。