大田村

総説

現状

大田村川越町の西南端に接続し、北は田面沢村、東は仙波村、東南は福原村、南は堀兼村、西南は日東村に連り、西北、入間川を隔てゝ、霞ヶ関村に対す。 其南方の一角長く福原堀兼二村の間に突出すること十余町、川越入間川街道は東北より西南に村内を貫き、川越鉄道は南大塚駅を設けたり。

土地東南の一半は高台にして、陸田若くは森林多く、土質も軽鬆也。 但其中間窪川あり、堀兼より来て、仙波福原の間に出づ。 その川の辺少しく低し。

然るに村の西北部は一帯の低地にして、水田連り、土質も壌土なりとす。 赤間川及二三の用水日東村より来り、東北に流れて田面沢村に出づ、小池多し。

全村農を主とし、米麦の産多し、池辺豊田豊田新田大塚大塚新田の五大字に分る。 戸数四百八十。 人口三千百十五。

沿革

大田村殊に其大塚近傍には古墳多し。 大塚の称も蓋し、名詮自称のものならん。 又高台及水田地帯の中間、断崖の処、往々にして塚穴ありと云ふ。

王朝時代の遺跡稍十分なるに似たり。

然れども其後明ならず。 降て文明十八年廻国雑記大塚十玉が所へまかりける云々と記したれば、当時修験十玉院大塚の地に存したると、見るに足るべく、小田原役帳には、御新造知行分六十貫九百六十四文豊田卯検地とあり。 天正十八年の禁制書には山田庄河越三十三郷之内豊田郷、池辺郷、大袋郷(日東村)と記されたるあり。 当時既に大塚池辺豊田が一村を成せるを証するに足れり。 池辺は大なる池の傍を開きし故名くるとかや。

然るに其後益々開けて、大塚は慶長十一年藤倉大膳の拓殖を盛にするあり、其十八年よりは桶川付近の人新兵衡次郎右衡門(牛窪氏の祖か、牛窪氏後に今福をも開く)なるもの近傍の芝地を開発して、大塚次郎右衛門新田と唱へ、延宝の頃に至り省略して大塚新田と称するあり。 豊田には豊田隼人居住の伝説ありて、其年代事蹟未だ詳ならずと雖、豊田新田は文禄元年三ヶ島村の人仲内蔵助の次男左京亮が開拓にて、左京新田と唱え、民戸僅に四軒の小村にて、毎年豊田に凖して事を行ひしかば、豊田新田と改めたと称せられ、其第一回検地は慶長元年若くは十三年に行はれたりと云へば豊田本村の古さと見るべく、而して大田村全村既に慶長の頃に於て其形を整頓したりしとを知るに足る。 天正十八年以来、豊田池辺は一時采地たりしと雖、全村始終川越領にして、明治二年川越藩となり、四年川越県、次で入間県(一大区三小区但池辺は四小区)となり、六年熊谷県、九年埼王県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年豊田新田連合、(池辺小室連合)二十二年大田村となる。 豊田安生老の伝説に至ては稍奇なるものあり。 其条に述べん。

池辺

池ノ辺は村の西北部を占めたり。 入間川に瀕す。 戸数百二三十。 古梶原池あり、押堀淵あり頗る大池ありしが如し。 今は左まで大ならず。

熊野神社

沿革不詳

三明院

真言宗にして、大智寺に属す、観池山地蔵寺と号せり。 或は古は三日月山と称せりと云ふ、開山不詳。 中興隆恵亨保九年寂す。 今は無住なりと雖、本堂あり、薬師堂あり。

稲荷神社

大塚稲荷と並で、川越町付近一帯の俗間に勢力あり。

豊田

豊田も村の西北部に位す。 戸数百六七十。 小学校は此処にあり。

白髭神社

沿革不詳。 社殿清素、社地狭からず。 境内に富士嶽浅間が塚を設けたり。

善長寺

曹洞宗龍穏寺に属し、豊田山と号す。 天文二年の開創にして開山は足立郡赤山村金剛寺第二世也。 開基は安通善長居士(天文五年卒)にして俗名豊田隼人と称せしならん。 然るに正徳二年の鐘に竜穩十二代鉄心御州の創開と記し、又別に新井帯刀(生卒年月不詳)の開基と称する説あれば、彼を創開とし、之を中興とすべきにや。 宝暦二年寺堂再建す。 豊田氏の後と称するもの村内にあり。 田中を氏とす。 或は豊田氏故ありて入間川町田中に移り、彼地の田中氏此村に移りしにや。 今も田中氏の後方構掘の跡あり。 新井氏も村の旧家、同じく構掘の跡あり。 寺は元境内一町、頗る広濶なりき。 薬師堂あり。 墓地に豊田隼人の墓と称する五輪塔あり。

安生老

川越入間川街道に臨み、豊田より野田新田にも及ぶ。 中央に白山社あり。 伝へ言ふ。 古は川越仙波喜多院の境内の一部にありしが、東照宮?造立の時、彼地を退去し、此原野を開きて居住せりと。 其旧家に伝へし所によれば、天正のはじめ、上野国に住し砥石売買を行へりと。 安生老の名何に依て生ぜしかを知らず。 二十二年四月北半を割て、野田新田に加ふ。

豊田新田

豊田新田は村の中央にあり。 戸数三十に満たず。 村役場あり。 小名に味ふべきもの多し。 里伝には此辺古は小ヶ谷田面沢村)の最明寺三十六坊の跡なりしと称す。 入間川は曽て高台に沿ふて流れし事あり、故に今も土地礫質を帯びたる処散在せりと云ふ。 鎌倉街道も東南より来て小ヶ谷方面に通じたりとかや。 中氏開発の新田地にして、古谷村の中氏三人兄弟にて三ヶ島豊田津久根三個処に分れし伝説あり、然れども事実は三ヶ島村の中氏分れて此地を開きしものなるに似たり。

大(おほ)陣山

南部に位し、川越入間川街道の西、高台下の森林地也。 里伝には新田義貞の陣地と称すれど、信ずべからず。 地理に就て考ふるに川越城の扇谷が、上戸方面の山内に備へし処にあらざるか否か。

仏坂

大陣山に続ける高台の地方一円を云ふ。 尚付近にカヒ山、ヨシ山、等の小名あり。 北部にはテンヤ坂、鍛冶屋山、大堀等の小名あり。 大堀は今は番匠屋敷と称せらる。 鶴代も設けられき。

南大塚及大塚新田

南大塚、大塚新田共に村の東南部に位す。 大塚戸数約一百、新田二三十。

天神社

大塚に属すれども大塚新田の人家と並びたり。 創立不詳、境内に梅樹数十株、内記頗る老幹あり。 社の神木は一小古墳に立てりと覚しく、其半枯死したる、樹梢は遠望の人をして、直に大塚の地なるを知らしむ。

西福寺

大塚にあり。 天神社の北に並べり。 木宮山地蔵院と号す。 川越喜多院に属せり。 法印詮海(寛永三年頃住)を十五世とし、法印証恵を十三世としたり。 其古寺なりしを知るべし。 然れども記録等全く欠けたり。 三芳村上富地蔵堂は古来、此寺と亀久保地蔵院とにて所持し、明治の始訴訟ありしも、依然として、二寺其権を享有せり。

稲荷神社

社地は大塚新田なるべし。 二十年前までは名も知られざる一小稲荷祠なりしに、 其後漸く流行して、 頗る参拝の者を多くせり。 社地古塚と覚しく、其後方にも亦一塚あり。

古墳

稲荷社を出でゝ、入間川街道に出んとする処、叢林あり。 之を山王森と云ふ。 曽て日枝神社あり。 其社跡は大なる古墳にして。 或は瓢形若くは鏡形をなせしと覚しく、大塚の名恐らく此辺に胚胎したるものならん。 或は曰く古は此外に大古墳ありきと。 此処より南方、入間川街道の両側に大小幾多の古墳あり。 或は既に其半を崩したるもあり。 其或ものよりは刀等を出したりと云ひ、其或ものよりは何物をも出さゞりきと云ふ。 思ふに古既に窃取したるものならん。