仙波村
総説
現状
仙波村は川越町の南に接続し、東は古谷、南古谷二村に接し、南は高階、福原二村に隣りし、西は大田村に連る。
郡内小村の一にして、戸数三百十二、人口千九百九十二に過ぎず。
大仙波、大仙波新田、岸、新宿の四大字より成る。
川越東京街道、川越所沢街道は相並て、川越町より村内を南に走れり。
土地東半は低地にして、水田あり。
西半は高台にして、皆陸田也。
麦、米、豆等の産あり。
九十(グじゅう)川は東境の一部を流れ、窪の川、不老(としとらず)川は南境を流れたり。
仙波河岸川は近年の開鑿にして、氷川沼、及愛宕ノ瀧より出づる水量を湛え、南に流れて不老川を併せ、九十川と会して、新河岸川となる。
舟楫の利あり。
沿革
仙波村は大字大仙波を以て古しとなす。
保元の頃既に仙波氏あり。
或は中古山田郷の中心地も此辺なりしと云ふ。
其後小田原時代と覚しき頃より、漸次他の大字も開け、江戸時代に及て、殆ど今日の体裁をなすに至れり。
蓋し川越江戸街道の開通及扇河岸新河岸の設置は此村の発達を資けたると少からざるが如し。
仙波河岸は明治に至て設立せらる。
大仙波には古墳の跡と覚しきものあり。
其氷川神社境内の如も、現に二三を存し、其愛宕神社及浅間神社の社地の如きも亦大なる円形の古墳なりしに似たり。
三芳野名所図絵を閲するに、大仙波村愛宕社の条に言へるあり。
往古此辺まて武蔵野なりし頃、此辺の野中に百塚あり、就中浅間と此山とは大なるを以て、父塚母塚と云ひしが、何れの頃にや浅間と愛宕との両社を勧請せりと。
抑も大仙波は 川越町
の小仙波と元一村にして、喜多院中院等と離るベからず。
其大小の別を設けしが如きは後世の事なるに似たり。
仙芳仙人の伝説は今改めて述ベず。
保元物語に仙波七郎高家なる人見え、仙波家系図には仙波七郎家信と記されたる、又少しく降て東鑑に仙波平太、仙波太郎、同次郎、同弥三郎、同左衛門尉など出てたる、何れも在名を以て氏とせしなるベく、村の旧きを知るベし。
更に降て北条役帳には関弥次郎仙波の内沼野五貫文云々とあり、或は永享記に長禄元年太田道真上杉持朝の命を受けて仙波にありし城を引移して今の川越の地に築造せしと見ゆ。
此仙波の城は或は何等かの誤なるベしと勘考せらるれど、要するに地方豪傑の居所たるに於て、決して不相当の処にあらざるが如し。
又旧山田郷の宿跡、村の西方今の大仙波新田裏の辺にありしと覚く、其辺より礎石、瓦の類を穿出すると少からず。
百年前は古井の跡も存せしと云ふ。
江戸時代に入ては其一部川越領たりしと共に、他は喜多院東照宮の神領として、不可侵の権威を有したりき。
而して中古未だ開発せられざりし地は、徳川初期に於て墾拓せられしと覚し。
新宿は古名或は荒宿也。
今の新宿の村は敢て古きものにあらずして、恐らくは三代将軍の頃より開発せられたるものなるベしと雖、旧府中鎌倉への街道此村若くは近辺を通過し云へば、其頃一小聚落たりしやも計られず。
大仙波新田は名の如く大仙波村の新田にて、古くも慶安年代、新きは元禄時代の検地也。
岸村は古名を宇士沢村と称せりとかや。
正保年代の書に記したりと
云ふ。
東京街道の開通以前は人家ありしとするも、必ず今日の処にあらざりしならん。
仙波村の諸部落は岸村が采地若くは支配地たりし外、何れも川越領にして、岸村もやがて松平大和守の時より川越領となりしが、新宿は大和守に随伴して前橋領となり、為めに明治二年川越藩前橋県あり。
四年川越県前橋県あり。
(大仙波の一部社寺領は此時川越県に入る)。
同年入間県(一大区二小区、但新宿は三小区)、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に属し、十七年小仙波を加へて大仙波新田連合を作り二十二年小仙波を除て仙波村を組織す。
大仙波は村の東部を占め、水田多し。
然れども村落は高台にあり。
戸数約八十。
仙波河岸は明治十二三年頃の経営にして、幕末維新の頃までは扇河岸、新河岸を以て舟楫発着の起点となし、為に川越方面よりの旅客荷物は多少の不便あるを思ひ、此村の人原達三郎開鑿の事に従ひ、次で川越の人染谷平六、吉田関太郎等資を投じて、更に利用の道を大にせんとするあり。
其後変遷あり。
発達して今日の状に至れり。
然るに水運は川越鉄道、川越電車に圧せられて今日は稍其効果を減ぜりと雖、尚川越町商品等の之に由て輸送せらるゝもの決して少きにあらざる也。
氷川脇と称する処にあり、仙波河岸に入る街道の北に接する叢林の一廓にして、村社也。
社殿古色あり。
社後の断崖眺望佳也。
境内に二三の古墳らしきものを見る。
社の創立は明ならずと雖、慶安元年検地帳に現今の社地を記載し、又丈余の樹木今も境内に存し、数年前までは更に甚だ多かりしに見れば少くとも三百年以前の創立なりとするを得ん。
氷川社の西南、河岸街道の北に沿ふて存す。
通史篇に述べたり。
仙波河岸の上崖に位し、其辺を富士の腰と称す。
社殿丘上にあり。
丘は高三丈、稍円形に近し。
古墳也。
社の創立に就ては村内に存する古文書に(元愛宕社に存したるもの)文禄二年正月十一日長床坊(山城愛宕山の坊也)内東光坊より当村万仁坊へ与へし書あり。
内に「武州河越愛宕山建立に就て万仁坊差置云々」とあり。
然るに又子の十二月廿六日政繁花押より万人と宛名せし古文書にて、「当地に於て望次第祈念守等可出由無相違儀に候」との許状あり。
政繁は勿論大導寺駿河守にして子の十二月廿六日は天文永禄天正の中ならざるべからず。
古社なるの明証を得たりと云ふべし。
尚降て慶長十九年酒井備後守忠利より神領中田一反、中畠一反寄附せし文書あり。
別当万仁坊は思ふに愛宕の西に接し、維新の頃に至て廃せられしものならん。
愛宕下の瀧小なれども付近に名あり。
愛宕社と同じく富士の腰にありて、略ぼ同型の塚上に社殿を設く。
古老の伝説には康平の昔源頼義の勧請と称すれども信ずるに足らず。
又太田道灌長禄二年再営し、永禄九年小田原麾下中山角四郎左衛門再興し、永銭十貫文を寄進せしと称す。
道灌説は勿論長禄元年道灌河越築城説より想出したる憶説のみ。
永禄九年説の如きは未だ確証をきかずと雖、比較的無難のものならん。
其後松平伊豆守供米を寄逞し、額二面を奉納す。
文政八年二月偶々火あり、遂に古記録等一切を失へりと云ふ。
維新前は中院の持にして、川越町の住民は毎年七月十四日早曉「初山」と称し、此社に詣するの風近年までも行はれしが、数年前より川越城趾御岳社の後方に浅間社を勧請したれば、今は若干は其方へ赴くに至れり。
氷川脇にあり。
八坂社と相並で、里路の傍に立つ。
慶安検地帳に社地の記載あり。
堀ノ内にあり。
享保二十年六月の建立にして、小池あり。
小祠あり。
周囲の風色甚だ幽寂なり。
堀ノ内にあり。
風土記に曰く。
「天台宗仙波喜多院末冷水山清浄土院と号す。
開山は慈覚大師なりと云へり。
当寺に伝ふる古き過去帳の序に永正甲戌(即十一年に当る)仏涅槃天台沙門宝海と記したれば、此人もし中興開山の僧なるにや、と。
(寺庭の沿革碑は信ずべからざる所あり)。
寺門を入れば右手に観音堂あり。
本堂庫理整頓せり。
庭前垂桜あり。
長徳寺の南氷川脇にあり。
中院の末寺にして、自然山大日院と称す。
天文二十三年九月の創立にして、開山栄海と伝へらる。
今の本堂は何時の建設にや、仮のものと覚ゆ。
大日堂あり。
西方の墓地中、当寺中興堅者法印賢海和尚位享保九年月日と記したる墓石あり。
依て中興の人と年代を知り得たり。
又小田原役帳を閲するに、勝瀬孫六、十九貫文仙波内天念寺分なるを載せたるは当寺を謂ふものならん。
大仙波新田は大仙波の西に連り、東京街道の両側に並べる一帯の部落にして北は川越通町に続けり。
川越素麺によれば、
仙波新田は江戸よりの入口にして、百姓町人入込の処、七八十年前まては居屋敷面々、家造り竪に一屋敷づゝ離れて、外は生垣竹藪なりしが、次第に当所整備に従ひ、町並軒並、年々営みの便も出来て繁昌す。
元禄中松平美濃守領地となり、泊宿を仰付られ、夫よりしばらくの間旅人宿ると、一には江戸入口、一には其頃美濃守領分、足立郡浦和蕨辺にありて、其辺の名主百姓が公用として、川越に来る時、道程七八里の処故是非に泊宿を此処にとれるなり。
当代は泊宿を止めたり。
と。
川越素麺の記されたるは何れの頃とも知るべからず。
唯様々の事由により判定する時は、大凡今より百四五十年前、初代松平大和守前後のものならん。
又三芳野名所図絵には美濃守宝永中甲府へ遷るに及び泊宿止むと記せり。
菅原と称する処にあり。
川越通町との境に近し。
社地高し。
天文十六年正月の創立にして、川越六塚の一社なりと云ひ伝ふ。
慶安の検地に際し、除地とせらる。
社地に周囲九尺の老榎あり。
菅原にあり。
天明十六年三月の創立なりとの伝説あり。
名所図絵には寛永元年妙善寺を建てたる尊能法印が勧請と記せり。
付近を天神前と称せしが後に改めたりと云ふ。
慶安の縄入に除地となる。
天明?八年火を失し、古棟札の類を亡へり。
社地に周囲九尺の老杉あり。
天神社の南に接し、天台宗、中院の末寺也。
道人山三心院と号す。
開山は尊能、寛永元年寂す。
本尊子育不動は安産の神として、賽客多し。
名所図会によれば、尊能寛永元年父母の追福のために此寺を立り。
父の法名道仙三心、母の法名妙善大師に囚て、山寺号を定めたりと。
一説也。
岸は大仙波新田の南に当り、有名なる烏頭坂の下にあり、東京街道の両側に人家列を成し、高階村砂新田と連れり。
戸数八十。
村の北端にして、大なる坂路也、或は雨塘坂、善知坂等の文字を用ゆ。
廻国雑記に、「これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる。
うとふ坂越えてくるしきゆく末を安方となくとりの音もかな
とあるは、果して此地なりや否や。
慶應三年某月某日、勤王の志士、入間郡三芳野村の人桜国輔、飯能の人小川香魚外一人、江戸高縄の薩藩邸を出てゝ京に上らんとするに当り、一たび家郷に父老に見えんがため、郡内に入り、富岡村付近に於て幕の間牒、土地の壮丁一人を斬り、為に博徒に追はれて、此処に馳せ来るの飛報川越藩に達せしかば城兵直に烏頭坂上木戸際に詰め、用意整へて待り間程なく、志士三人長刀を携げ、馳せて関門に入らんとしたりしかば、城兵矢玉を放て之を東方に追ひ、遂に大仙波、河岸付近の水田中に窮迫して、国輔光香を自刄せしめ、一人をして砂新田に於て自刄せしめたりしは、四十五年の昔の事、烏頭坂上当年の悲劇を思へば凄然として志士のために涕なき能はず。
山下と称する処にあり。
烏頭坂の上に位す。
木立あり。
創立年月詳ならずと雖、元禄六年の検地帳に除地として記されたり。
当時は現社地を去ると六町、南谷と称する処にありしが、幕末の頃、移転したる也。
明治五年村社に列せられ、六年再営、十九年地主神たる稲荷社を末社と定む。
四十二年に至て、村内の神明社(押切にあり)、諏訪社(諏訪前にあり)を合祀せり。
熊野社境内にあり。
元此処の地主神也。
名所図会に大仙波新田宿入口西側木戸際にあり。
妙善寺の尊能法印勧請と記せるは是なるべし。
元禄六年の検地帳に除地とせられたり。
今は熊野の末社となる。
高畑にあり。
街道より西に入ると、約一町、小門を入りて前は本堂、左に八坂の小祠あり、傍に板碑倒れたり。
此寺曹洞宗にして、川越養寿院に属す。
開山は上月明梵、元和元年寂す。
聞基は地頭長田氏なるべしと云ふ。
村の西方にかゝれりと云ふ。
新宿は大仙波新田の西に位し、所沢街道に当れり。
戸数四十五。
村の西方に位し、鬱蒼たる大森林なりしも、漸次伐採せられて、今は其一小部を残せるのみ。
古老の朧(おぼろ)に伝ふる所によれば、此森その昔仙波喜多院一帯の森と続き、狐狸の往来する処なりしと云ふ。
狐に関する物語も二三伝はりたるが如し。
雀森にあり。
村社也。
社地は延宝六年の検地帳に除地とせられたり。
稲荷、春日の小社あり。
村内木野村氏に存する氷川神社由緒「未の太郎公」物語は之を神社の来歴とせんよりも、寧ろ別個の方面より観察して興味多きを覚ゆる也。
森の入口に富士浅間の小塚あり。
高一丈、岩石を並べて、富士山に擬せり。
氷川社の旧別当は大仙波常宝院なりしを故ありて網代教学院に変せりと云ふ。
所沢街道の西、屋敷と称する処に大日堂あり。
其前に一小古碑と樅の若木あり。
傍に由来を記せり。
然るに其碑は容易に信ずべからず。
伝ふる所によれば、大日堂の西南一二町ばかり、寺屋敷と称する処に元善仲寺あり、天正の初年古谷村に移したりと。
之を古谷村に存する口碑等に考ふるも略然るが如し。
善仲寺既に古谷村に移れり。
此に於て其跡に大日堂を設け。
善仲寺隠寮と呼びたり。
庚申山大日堂の説の如きは其後に至て附したる名称のみ。
(古谷村善仲寺の条参照)