南古谷村
総説
現状
南古谷村は郡の東隅に位し、東は荒川を以て北足立郡に境し、
北は古谷村、
南は南畑村、
福岡村、
西は仙波村、
高階村に隣接せり。
川越町を去る一里余、川越志木街道及大宮所沢街道は村内に於て交叉せり。
地勢一面の平地にして、荒川東境にあり、九十川は村の西部を流れて、西南境に不老川と会し、新河岸川となりて、高階、福岡二村の境界をなせり。
其外二三の用水あり.土質は粘質壌、地味は肥沃、耕地は大抵水田也。
久下戸、
並木、
南田島、
今泉、
木野目、
牛子、
古市場、
渋井の八大字に分れ、
戸数六百八十七、人口四千四百二十一、米麦の産あり、又若干の川魚を出す。
沿革
木野目には美なる正円錐形の二塚あり、一は愛宕を祭り、一は浅間を祀る。
土人男塚女塚の称あり。其外久下戸に富士塚とやら水塚とやら称するあり。
新河岸川に沿ふで尚二三を見る。
但果して王代の古墳なりや否や未だ明かならざる也。
蓋し南古谷村は南畑村等と同じく、荒川(若くは其以前の入間川)の沖積作川及土地の隆起によりて成立せる地方にして、其事甚だ遠き古にありと雖、古老の伝説に言ふ。
南古谷の地方、元大沼沢なりきと。
伊佐沼の如きは其名残なるべく、
今も南田島、
牛子辺は低くして、
年中、水田に水を湛えたるに見れば古老の言必ずしも一概に排斥する能はざる也。
殊に水患の多く、地を穿てば清泉湧出し、現に掘抜井六町一町余、即全村殆ど掘抜井なるが如き、真に、水の村たるの実を有せりと云ふべき也。
古は此辺何れも古谷郷にして、
鎌倉街道の跡は渋井の東南を貫きて、
鎌倉より奥州への街道と称せられ、沿道或は繁昌せしものあらん。
渋井の街道端と称する小字は即ち鎌倉古道の付近也、
古市場の如きも果して当時の街道に沿ひしや否やを知るべからずと雖(土地の人は奥州より馬を持ち来り市を開けりと云ふ)其名称よりして、
疑もなく中古市場の設定ありし処なるを知る也。
小田原時代に至ては役帳に見ゆるもの一あり。
備中殿四十五貫文入東田島とあるは南田島なるべく、三貫文福岡の内渋谷分とあるは風土記には渋井にて、渋井元は福岡に属せしならんと称すれば稍異存なき能はず。
其蓮光寺は永正の始めより既に存立せしものゝ如く、旧家黒須氏は後北条氏の別系と伝ふ。
江戸時代は全村川越領にして、今泉のみ幕末前橋領となる、故に明治二年川越藩、前橋藩、四年川越県、前橋県たり。
而して同年入間県(二大区一小区)に入り、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年古市場渋井は福岡村(駒林を除く)の四大字と古市場連合を作り、他は並木連合を作りしが、二十二年南古谷村を成す。
久下戸(クゲド)は村の東部を占むる大部落也、
吉田博士の説によれば久下戸は即ち郡家にして、
古の入間郡の所在地ならんと。
風土記にも一説として見ゆ。
果して然るや否や、但古は久家土とも記せりと云ふ。
戸数一二百余。
前田にあり。
杉樹多し。
創立不詳。
北谷にあり。
薬師と称する処にあり。
村の中央、中方にあり。
前田にあり。
同(前田にあり。)
同(前田にあり。)
以上は何れも小社にして、無格社に属す。
創立も古からざるが如し。
渋井蓮光寺に属し、開通山と号す。
開山明暦文的寛永二年に寂せりと云へば、江戸時代の始に成りしを知るべし。
今は廃寺となれり、
同じく灌頂院末の一寺なりしが、今は村の集会所となれりと云ふ。
数代前の主、友山五平次氏水難に際し、頗る慈善を行へるを以て名あり。
今も村の素封家なり。
並木は村の北部にあり。
村の中央に位す。
川越志木街道に臨めり。
杉樹多し。
氷川社の南に接せり。
天台宗にして、
灌頂院に属す。
両宝山福寿寺と号す。
寛永元年智白の建立にして、中興亮順延享四年寂す。
釈迦堂あり。
庭前の樹木風致ありて、村寺の体裁整へり。
墓地に応安元年、延文五年の二板碑ありて風土記に記せる八基の中、六基を滅ぜり。
木野目は並木の南に接せり。
戸数百に近し。
新田にあり。
老大杉あり。
社の傍に第六天、八坂の末社及御岳山を設く。
江川にあり。
男塚の上にあり。
新田にあり。
女塚の上にあり。
灌頂院末にして、
木匠山と号し、
古東覚寺と云へる坊跡に建てたる一寺なりしが、
今は其跡を知らず。
今泉は並木の東南に位せり。
戸数五六十。
南田にあり。
境内に八坂稲荷等の小祠あり。
灌頂院末にして、
大悲山慈眼院と号したりしが、今は廃寺となる。
古市場は村の西南に位し、大宮所沢街道に沿ひ、又新河片川に臨み、水運の便あり。
従て人家相連て一小宿駅の観をなせり。
戸数百二三十、中氏古く、沢田氏之に次ぐと言ふ。
両氏を称するもの甚だ多し。
古我原にあり。
古は獅子明神と称し、
今泉渋井古市場三村の鎮守と崇められしも、
明治初年古谷本郷八幡神社の氏子となり、
為に此社も単に三大字の信仰社たるに過ぎず。
末社多し。
社後は新河岸川也。
灌頂院末の一寺にして、
台峯山薬師院と号せしが、
今は廃されて本堂の跡水田となりしも、
僅に其薬師堂と墓地とを残す、
同じく灌頂院末にして安養山浄土院と号す。
今は寺なく堂なく、唯墓地を存するのみ。
渋井は村の南部に位す。
戸数七八十、旧家黒須氏は今所沢町長たり。
江川端にあり。
末社に春日天神、疱瘡祠等あり。
又最近左の諸社をも合祀せり。
元川久保にあり。
元江川端にあり。
元堤根にあり。
鎌倉街道は此社の付近を通ぜしものなるべし。
曹洞宗にして下野国長林寺末、鷲嶽山と号す。
開山麼庵総與永正十七年十一月廿八日寂す、後徳川家康の此辺に放鷹するや、此寺に憩ひて、茶を契せりと云ふ。
寺堂雄大、楼門あり。
鐘楼あり。
正門は南面して、新河岸川の辺に立てり。
真言宗、北足立郡与野町円乗院末なりしが、今は廃寺となる、
曹洞にて、元禄中の設置、鎌倉古街道に臨めり。
川久保にあり。
曹洞にて元禄以前の設置と覚ゆ。
牛子は村の西南に位し、新河岸川に臨めり。
元和四年の頃の書には牛子新田村と記せしものありとかや、其頃開けしと覚ゆ。
戸数三十。
河岸の設ありしも、今は衰ヘたり。
河原町にあり。
南田島は村の西部にして、九十川の右岸を占めたり。
戸数一百に近し。
西田にあり。
杉樹多し。
村社也。
西田にあり。
西田にあり。
北田にあり。
同(北田にあり。)
江添にあり。
北田にあり。
同(北田にあり。)
堤外にあり。
金光山宝勝院と号し、天台宗、
川越中院に属する一寺なりしが、
今は廃寺となる。