古谷本郷

古谷本郷は古谷村の南に連り、東西十八町余、南北十四町余、元古谷村と一村なりしと云ふ。 人家約百五十。

古尾谷八幡神社

字八幡脇にあり。 里伝に曰く、淳和天皇天長年間延暦寺坐主円仁(慈覚大師)詔を奉じて法を東国に弘むるの際、錫を此地に止め、灌頂院を起せり。 其後清和天皇貞観年中再び来て法を修する時、男山石清水八幡の分霊を奉じ来て之を祀る、神殿寺観甚だ壮麗を極めたり。 其後天慶二年祭田祠堂乱臣に奪はれ、僅に百分一を後世に残せるのみ。 爾来社殿益荒れ、条祀も挙げざるに至りしが、元暦元年源頼朝祭田を復し、祀典を起し、文治二年奥羽征討の際来て祈願する所あり。 凱旋後大い宮殿を造立せり。 それより弘安元年藤原時景と云ふ者、暫く此地を領し、社殿の頽廃を復し、梵鐘を鋳て社頭に掲げたり(天文中焼壊す)正平七年古尾谷刑部大輔人道古尾谷の内七郷を領し、二月小手指の戦に戦勝を祈り、吉瑞を得たり。 乃ち出陣し、足利氏に属して功あり。 凱旋後其子近江太郎信秀をして、刀を献ぜしめ、瀬戸之太刀と云ふ(今も存す)天文十五年四月神殿僧坊兵火にかゝり、社祠の体裁全く灰滅す。 天正五年二月北条氏政の麾下中筑後守資信更に社殿を造営し、古尾谷の中、若干を寄進す。 十八年徳川氏入国し、翌年家康放鷹を名とし、巡視して川越に至れる時参拝し、灌頂院に懇へり。 因て旧跡の縁故を問ふ。 住僧齡八旬、耳已に聾し、能く聞く能はず。 単に頼朝の事を述ふ。 是を以て後人多く頼朝創立の異説を伝ふ、正保中の鐘銘亦之に従へり。 後享保に至り本社拝殿摂社末社まで氏子各村分擔して、再築せり、以来明治に至り、四年川越県第二区の郷社となり。 其後分合廃置相尋きしも依然として郷社として存せり。 明治十二年今の社殿を造ると。 案ずるに此説、前半は殆ど疑ふべし。 然れども八幡の古社なるとは認むるに難からず。 境内広濶にして老樹甚だ多し。 朱塗の社殿、壮観也。 末社多し。

氷川神社

字氷川前にあり、口碑によれば、此社もと堤外にありて、郷社八幡神社創立以前の氏神なりしが、八幡社創立以来氏子皆之に属し、当社は逐年衰徼し、修理も加へざるに至れるを以て、此地に移し一小祠となせるものにして、今猶堤外に宮ノ原と称する所あり、本社の旧跡なりと云ふ。

稲荷神社

八幡脇にあり。

灌頂院

天台宗也。 里伝に曰く、淳和天皇天長年中、慈覚大師、東国に来り、此地に於て潅頂修業し、此寺を立て其開山となり傍に八幡祠を立つ。 其後貞観年中、潅頂道場全く備はれり。 之を実聚山灌頂院東漸寺と号す。 其後天慶二年平将門の乱に寺領逆賊に奪はれ、堂閣破壊せられ、僅に十一を千百に存するのみとなれり、元暦四年頼朝堂宇坊舍を再興し、寺領を復す、弘安元年藤原時景再営し、天文年間川越の戦に焼失し、天正十九年徳川家康放鷹して此寺に懇ふ。 其後天保の火災を経、堂宇を再営せり。 徳川時代大広間独礼を許されし当時も維新後八幡社領は上地となり、神仏混淆は禁ぜられ、聊か振はざるものあり。

六年南古谷村木野目吉祥院を合寺し、其後宗制寺法新に成り、今の寺格となると。 此説も前半稍断定に苦しむ。 然れども其創立の古きは之を信ずるに足る。 寺堂雄大、寺域亦頗る広闊也。 其中央の山門は丹青、構造、周閘に合せず。 甚だ眼を惹く。 即ち是れ旧八幡神社の鐘楼たりしものなりと云ふ。 寺に徳川時代、末寺に関する文書多し。

灌頂院は八幡社の東にあり。 然れども其末寺塔頭は八幡神社の西方に存せしものゝ如く、宝塔院と云ひ、盤若院と云ひ、神宮寺と云ひ、観音院と云ひ、大蔵院と云ひ、本行院と云ひ、或は全く廃滅し、或は廃庵、堂跡を存す。 尚此辺、古墳と覚しきもの若干見え、板碑も比較的多し。

地蔵堂

字石代にあり。 此処に板碑甚だ多し。 此付近より出でしにや。