古谷村

総説

現状

古谷村は郡の東北部の一村にして川越町の東に連り、東は北足立郡に接し、 北は植木芳野二村に堺し、南は南古谷村、西南は仙波村の地に隣す、

荒川東部を流れ、伊佐沼及九十川西境にあり、古川は北境にあり。 土地低平、水田相望み、用水は伊佐沼より引けり、但荒川以東は上地稍高く、陸田若くは雑草地多し。 物産は米を主とし、麦之に次ぐ、伊佐沼及荒川よりは魚類を漁るべし。 川越大宮街道村内を横断し、電車も大抵此道に沿ふて走れども、伊佐沼及荒川の付近は旧道に従へり。 古谷上古谷本郷小中居大中居高島八ッ島の六大字より成り、戸数六百五十七、人口四千四百五あり。

沿革

古谷村地方の開けしは何れの頃にあるか。 思ふに少くとも鎌倉末若くは南北朝の始にあらん。 郷社古尾谷八幡宮は古社なるが如く、又太平記等に見えたる古尾谷氏は恐らく此村の人なるべし。 更に里伝によれば、文明の頃川越城の築かれしに当ては、此地方固より上杉氏の所領たり。 降て天文年代川越城の北条氏に帰するや、大導寺駿河守此地方を領したりしが、永禄二年太田美濃守之に代り(役帳による)天正元年仲筑後守此辺の領主となれりと。 中氏の遺蹟今尚存す。 次で天正十八年小田原陥り、徳川氏関東に入るに及び、終始川越領たり、明治二年川越藩知事に属し、四年川越県に属し、同十一月入問県(二大区一小区)と改め、六年熊谷県に転じ、九年埼玉県となり、十二年郡制布かれて入間高麗両郡役所の管理に帰し、十七年七月十四日古谷上に連合戸長役場を設け、二十二年古谷村となり、其役場を古谷上に置けり。

又小田原時代までは郷制尚存し、本村の六大字に加へて、南古谷村木之目並木久下戸今泉古市場渋井南畑村東大久保を併せて古尾谷郷と称せしも、其後郷制自ら廃れて、各村独立せり。 古尾谷の古谷に化したるは何時の頃にや明ならず。

古谷上

古谷上は村の北部を占め、東西三十町余、南北二十町余、戸数三百余、正保の古文に古谷上郷とあり、慶安の水帳には河越領上郷と記したり。 今も人は一般に「上郷」を以て此地を通用す。

古尾谷城

堀之内にあり。 土地縦横に小渠を通じ、内廓外廓の状、今尚一部を存せり。 近傍に内曲輪、御門、門前、宿、馬場、的場、馬洗、家中畑、屋敷等の小名あり、皆古尾谷氏在城中の旧跡にして、其名の存するもの也。 古伝に曰く、文和年中(北朝)古尾谷氏此に居城せりと、墳墓は善仲寺境内にありて、断碑四五基を存すれども読み難く、子孫近世にきこえざれば、其世系も知るべからず。 後天正中、其臣中筑後守資に又此に館すと、其墓又同寺にあり。 伝へ言ふ。 資信天正十年十二月六日村内の鎮守にて舅氏某に誘殺せられ、一家離散せり。 因て土人遺骸を此地に埋むと。 其子孫郡内三ヶ島村南畑村古市場村(南古谷豊田新田大田村)等にあり。

注意

古尾谷氏の事も中氏の事も異説甚だ多く、且材料甚だ欠乏到底之を詳にすべからず、善仲寺に存する中氏代々の霊位の如きも、頗る吟味を要すべきもの、今は概して里伝に従へり。

赤城神社

字赤城にあり。 創立年紀詳ならず。 風土記には唯此辺土地低く水患あれば、其災を避んと近き比塚を築き、上に社を立つ此辺の鎮守なりと記せり。 然るに寛文の頃までは全村挙て赤城社を仰きしも、其後村内両分し、為に唯西部半ヶ村の産土神となれり。 加之更に明治四年古谷本郷八幡神社を以て村の鎮守となすに及び、赤城社は単に信仰社たるのみ。 其丘高丈五尺。

一ノ宮神社

字堤外にあり。 大山乍命を祭る。 旧別当実相院の古記録によれば、近江国滋賀郡日吉神社の分霊なりと云ふ。 一ノ宮と称するに就ては伝説あり。 曰く、昔最澄が日吉山に入り堂宇を建つるの地を相せし時、日吉の社号を改めて山王となし、又六社を増祀して山王七社程現と称し、日吉山を比叡山と改め、神社を以て仏寺の守護神となせり。 因て本社は其一宮権現を移せるなりと云ふ。 明治四年まで当村東半の鎮守たりき。 社地樹木鬱蒼たり。

菅原天神社

字三ヶ戸と云ふ処にあり。 菅公を祭る。 古老の口碑によれば、中筑後守資信の城内鎮守なりと云ふ。 現今の社地は其城門のありし処にして、三ヶ戸の名之に依て生ず。 三ヶ戸は即ち御門なりとかや。

一本杉稲荷神社

字上ヶ谷戸にあり。 倉稲魂命を祭る。 古老の伝によれば、中筑後守の家臣此地方に住し、当社は其氏神なりしと云ふ。 之を以て社傍の地、今も尚家中畠の古称を遺せりと。 所謂一本杉に至ては、古木既に中空にして、梧桐其中に生ひ茂りたり。

姥神社

黒須にあり。 石凝刀亮命を祭る。

稲荷社

屋敷にあり。 古老の言によれば、中築後守の家臣邸宅を此地に構へ、本社を以て其氏神とす。 然るに本社は中氏の居城の東北隅に当るを以て、鬼門除の社とし、特に崇敬せられ、敢然たる一大社として、境内広大社殿壮麗なりしが、中氏滅で衰頽し、境内も荒川のために壊崩され、今は些々たる小祠を存するのみ。

熊野神社

赤城にあり。 丈許の丘上にあり。

八坂神社

堀之内にあり。 元中筑後守の内廓古跡上に当り、地名堀内の名も従て生ぜり。 古老の言によれば、山城国祇園社の神符を請ひて祭れるものにし て、維新前には祇園牛頭天王と称せりと云ふ。

浅間神社

堤外にあり。 元は古川?の岸にありて、久しく富士塚と称し、近傍の地名にも及びしが、維新改租の際其繁雑を愁ひ、之を堤外一宮社?に合せたり。

金刀比羅神社

上谷にあり。

善仲寺

字堀之内にあり。 文政六年正月十三日の火災にて古文書焼失し、由緒詳ならざるに至れりと雖、正治二年庚申歳今の仙波村新宿の地にありて、善中寺と称し、開祖は妙心寺派默室禅師也。 (新宿村参照)寺又庚申山と称し、又安養山と云ふ。 安養は古尾谷近江小太郎信秀の法名也。 信秀法謚を古谷院安養無着と云ひ、応永六年十一月廿八日歿す。 其後天正元年家臣中筑後守資信古尾谷を領し、因て主家のために之を再興せり。 即ち資信は渋井蓮光寺六世性翁慶守を中興開山とし、寺を館側に置く、資信の号安養院と称するを以て古谷山安養院と改む。 法系今に連綿たり。 曹洞宗蓮光寺末。 其墓地の辺当年の塁跡明に存す。 西北隅に古尾谷無着の墓あり。 又正北に中筑後守藤原資信の墓あり、然も墓石苔むし、今や文字を弁ずべからざる也。

実相院

古川端にあり。 天台宗山門派にして本郷灌頂院末也。 風土記に境内嘉元四年の古碑一、外に年号文字凡て不分明の古碑二三枚ありしとを記せり。 古谷村地誌によれば慶安年中の水帳には実相坊と記し、里伝、往時門徒寺なりしが、宝暦年代村民善仲寺と争ふとあり。 離壇して実相坊を押し一寺となしたりと。 又善仲寺過去帳にも実相坊の名あり。 然れども開山幸了と称するは天正五年領主中筑後守が古尾谷八幡宮を再建せし時の僧なれば、古き寺跡なるとを知る、当時は多聞院と云ひしが如く、今も寺号を多聞寺と云へり。 と。 開祖幸了の石碑存すれども年号等なし。 十二世器空なるもの享保年間中興したりしが、寛保、安永両度火災あり記録等焼滅せり。 十五世簒隆天保年中堂宇を営む。 現存のもの是也。

善行寺跡

字沼端にあり、破堂今尚存す。 往時は実相院門徒なりしが、明治六年廃寺となれり。

延命寺跡

宿にあり。 破堂尚存す、往時は灌頂院門徒、明治六年八月十五日廃寺となる。 墓地中に旧本堂及薬師堂あり、墓地に康(或は応)永三年及地蔵を刻せる板碑あり。

薬王寺跡

道々(ドードー)にあり、畑となる、往時は善仲寺門徒、寺跡は今善仲寺境内に移し、庵を立てゝ本尊薬師仏ををけり。

古谷本郷

古谷本郷は古谷村の南に連り、東西十八町余、南北十四町余、元古谷村と一村なりしと云ふ。 人家約百五十。

古尾谷八幡神社

字八幡脇にあり。 里伝に曰く、淳和天皇天長年間延暦寺坐主円仁(慈覚大師)詔を奉じて法を東国に弘むるの際、錫を此地に止め、灌頂院を起せり。 其後清和天皇貞観年中再び来て法を修する時、男山石清水八幡の分霊を奉じ来て之を祀る、神殿寺観甚だ壮麗を極めたり。 其後天慶二年祭田祠堂乱臣に奪はれ、僅に百分一を後世に残せるのみ。 爾来社殿益荒れ、条祀も挙げざるに至りしが、元暦元年源頼朝祭田を復し、祀典を起し、文治二年奥羽征討の際来て祈願する所あり。 凱旋後大い宮殿を造立せり。 それより弘安元年藤原時景と云ふ者、暫く此地を領し、社殿の頽廃を復し、梵鐘を鋳て社頭に掲げたり(天文中焼壊す)正平七年古尾谷刑部大輔人道古尾谷の内七郷を領し、二月小手指の戦に戦勝を祈り、吉瑞を得たり。 乃ち出陣し、足利氏に属して功あり。 凱旋後其子近江太郎信秀をして、刀を献ぜしめ、瀬戸之太刀と云ふ(今も存す)天文十五年四月神殿僧坊兵火にかゝり、社祠の体裁全く灰滅す。 天正五年二月北条氏政の麾下中筑後守資信更に社殿を造営し、古尾谷の中、若干を寄進す。 十八年徳川氏入国し、翌年家康放鷹を名とし、巡視して川越に至れる時参拝し、灌頂院に懇へり。 因て旧跡の縁故を問ふ。 住僧齡八旬、耳已に聾し、能く聞く能はず。 単に頼朝の事を述ふ。 是を以て後人多く頼朝創立の異説を伝ふ、正保中の鐘銘亦之に従へり。 後享保に至り本社拝殿摂社末社まで氏子各村分擔して、再築せり、以来明治に至り、四年川越県第二区の郷社となり。 其後分合廃置相尋きしも依然として郷社として存せり。 明治十二年今の社殿を造ると。 案ずるに此説、前半は殆ど疑ふべし。 然れども八幡の古社なるとは認むるに難からず。 境内広濶にして老樹甚だ多し。 朱塗の社殿、壮観也。 末社多し。

氷川神社

字氷川前にあり、口碑によれば、此社もと堤外にありて、郷社八幡神社創立以前の氏神なりしが、八幡社創立以来氏子皆之に属し、当社は逐年衰徼し、修理も加へざるに至れるを以て、此地に移し一小祠となせるものにして、今猶堤外に宮ノ原と称する所あり、本社の旧跡なりと云ふ。

稲荷神社

八幡脇にあり。

灌頂院

天台宗也。 里伝に曰く、淳和天皇天長年中、慈覚大師、東国に来り、此地に於て潅頂修業し、此寺を立て其開山となり傍に八幡祠を立つ。 其後貞観年中、潅頂道場全く備はれり。 之を実聚山灌頂院東漸寺と号す。 其後天慶二年平将門の乱に寺領逆賊に奪はれ、堂閣破壊せられ、僅に十一を千百に存するのみとなれり、元暦四年頼朝堂宇坊舍を再興し、寺領を復す、弘安元年藤原時景再営し、天文年間川越の戦に焼失し、天正十九年徳川家康放鷹して此寺に懇ふ。 其後天保の火災を経、堂宇を再営せり。 徳川時代大広間独礼を許されし当時も維新後八幡社領は上地となり、神仏混淆は禁ぜられ、聊か振はざるものあり。

六年南古谷村木野目吉祥院を合寺し、其後宗制寺法新に成り、今の寺格となると。 此説も前半稍断定に苦しむ。 然れども其創立の古きは之を信ずるに足る。 寺堂雄大、寺域亦頗る広闊也。 其中央の山門は丹青、構造、周閘に合せず。 甚だ眼を惹く。 即ち是れ旧八幡神社の鐘楼たりしものなりと云ふ。 寺に徳川時代、末寺に関する文書多し。

灌頂院は八幡社の東にあり。 然れども其末寺塔頭は八幡神社の西方に存せしものゝ如く、宝塔院と云ひ、盤若院と云ひ、神宮寺と云ひ、観音院と云ひ、大蔵院と云ひ、本行院と云ひ、或は全く廃滅し、或は廃庵、堂跡を存す。 尚此辺、古墳と覚しきもの若干見え、板碑も比較的多し。

地蔵堂

字石代にあり。 此処に板碑甚だ多し。 此付近より出でしにや。

小中居

小中居は古谷本郷の西に連り、東西十三町余、南北六町余、人家六十余戸。

神明神社

字中通にあり。

稲荷神社

大田にあり。

国造神社

高畑にあり、大己貴命を祭る。

観音堂

字鴻橋にあり。 天台宗。

薬師堂

同同(字鴻橋にあり。天台宗。)

常光寺跡

鴻橋にあり。 往時は灌頂院門徒、 明治六年八月十五日廃寺。

東光寺跡

鴻橋にあり、灌頂院門徒、前寺と同寺に廃寺となる、今は旧本堂のみを存し、墓守を置く。

大中居

大中居は小中居の西に連り、 東西七町余、南北十一町余、戸数五十余。

氷川神社

北にあり。 社地に二三の末社あり。 又一丈許の塚上、浅門の祠を設けたり。 境内杉多し、華表前に小池あり。 厳鳥祠を設く。

愛宕神社

字北にあり。 氷川社の南に接せり。

高松寺

字前にあり、天台宗、普門山観音院と称し、慶安五年僧広海の開山也。 今は無住荒廃甚し。 薬師堂あり。

高島

高島は大中居の西北に連り、 東西六町、南北五町弱、人家約三十戸。

稲荷神社

字江川にあり。

八坂神社

字前田にあり。

延命院跡

字前田にあり。 往時は灌頂院門徒、 明治六年八月十五日廃寺となり。 今は破庵尚存して、徒らに昔を語れり。

八ッ島

八島は、高島の北に位し、 東西七町、南北五町弱、人家三十戸、 此処は天正年中?鉢形城の亡人三上山城守が開墾せる処なり。

稲荷神社

瀬戸町にあり。

八ッ島稲荷神社