大仙波

大仙波は村の東部を占め、水田多し。 然れども村落は高台にあり。 戸数約八十。 仙波河岸は明治十二三年頃の経営にして、幕末維新の頃までは扇河岸新河岸を以て舟楫発着の起点となし、為に川越方面よりの旅客荷物は多少の不便あるを思ひ、此村の人原達三郎開鑿の事に従ひ、次で川越の人染谷平六、吉田関太郎等資を投じて、更に利用の道を大にせんとするあり。 其後変遷あり。 発達して今日の状に至れり。 然るに水運は川越鉄道、川越電車に圧せられて今日は稍其効果を減ぜりと雖、尚川越町商品等の之に由て輸送せらるゝもの決して少きにあらざる也。

氷川神社

氷川脇と称する処にあり、仙波河岸に入る街道の北に接する叢林の一廓にして、村社也。 社殿古色あり。 社後の断崖眺望佳也。 境内に二三の古墳らしきものを見る。 社の創立は明ならずと雖、慶安元年検地帳に現今の社地を記載し、又丈余の樹木今も境内に存し、数年前までは更に甚だ多かりしに見れば少くとも三百年以前の創立なりとするを得ん。

古穴跡

氷川社の西南、河岸街道の北に沿ふて存す。 通史篇に述べたり。

愛宕神社

仙波河岸の上崖に位し、其辺を富士の腰と称す。 社殿丘上にあり。 丘は高三丈、稍円形に近し。 古墳也。 社の創立に就ては村内に存する古文書に(元愛宕社に存したるもの)文禄二年正月十一日長床坊(山城愛宕山の坊也)内東光坊より当村万仁坊へ与へし書あり。 内に「武州河越愛宕山建立に就て万仁坊差置云々」とあり。 然るに又子の十二月廿六日政繁花押より万人と宛名せし古文書にて、「当地に於て望次第祈念守等可出由無相違儀に候」との許状あり。 政繁は勿論大導寺駿河守にして子の十二月廿六日は天文永禄天正の中ならざるべからず。 古社なるの明証を得たりと云ふべし。 尚降て慶長十九年酒井備後守忠利より神領中田一反、中畠一反寄附せし文書あり。 別当万仁坊は思ふに愛宕の西に接し、維新の頃に至て廃せられしものならん。 愛宕下の瀧小なれども付近に名あり。

富士浅間神社

愛宕社と同じく富士の腰にありて、略ぼ同型の塚上に社殿を設く。 古老の伝説には康平の昔源頼義の勧請と称すれども信ずるに足らず。 又太田道灌長禄二年再営し、永禄九年小田原麾下中山角四郎左衛門再興し、永銭十貫文を寄進せしと称す。 道灌説は勿論長禄元年道灌河越築城説より想出したる憶説のみ。 永禄九年説の如きは未だ確証をきかずと雖、比較的無難のものならん。 其後松平伊豆守供米を寄逞し、額二面を奉納す。 文政八年二月偶々火あり、遂に古記録等一切を失へりと云ふ。 維新前は中院の持にして、川越町の住民は毎年七月十四日早曉「初山」と称し、此社に詣するの風近年までも行はれしが、数年前より川越城趾御岳社の後方に浅間社を勧請したれば、今は若干は其方へ赴くに至れり。

稲荷社

氷川脇にあり。 八坂社と相並で、里路の傍に立つ。 慶安検地帳に社地の記載あり。

厳島社

堀ノ内にあり。 享保二十年六月の建立にして、小池あり。 小祠あり。 周囲の風色甚だ幽寂なり。

長徳寺

堀ノ内にあり。 風土記に曰く。 「天台宗仙波喜多院末冷水山清浄土院と号す。 開山は慈覚大師なりと云へり。 当寺に伝ふる古き過去帳の序に永正甲戌(即十一年に当る)仏涅槃天台沙門宝海と記したれば、此人もし中興開山の僧なるにや、と。 (寺庭の沿革碑は信ずべからざる所あり)。 寺門を入れば右手に観音堂あり。 本堂庫理整頓せり。 庭前垂桜あり。

天然寺

長徳寺の南氷川脇にあり。 中院の末寺にして、自然山大日院と称す。 天文二十三年九月の創立にして、開山栄海と伝へらる。 今の本堂は何時の建設にや、仮のものと覚ゆ。 大日堂あり。 西方の墓地中、当寺中興堅者法印賢海和尚位享保九年月日と記したる墓石あり。 依て中興の人と年代を知り得たり。 又小田原役帳を閲するに、勝瀬孫六、十九貫文仙波内天念寺分なるを載せたるは当寺を謂ふものならん。