六塚稲荷社
菅原と称する処にあり。 川越通町との境に近し。 社地高し。 天文十六年正月の創立にして、川越六塚の一社なりと云ひ伝ふ。 慶安の検地に際し、除地とせらる。 社地に周囲九尺の老榎あり。
大仙波新田は大仙波の西に連り、東京街道の両側に並べる一帯の部落にして北は川越通町に続けり。 川越素麺によれば、
仙波新田は江戸よりの入口にして、百姓町人入込の処、七八十年前まては居屋敷面々、家造り竪に一屋敷づゝ離れて、外は生垣竹藪なりしが、次第に当所整備に従ひ、町並軒並、年々営みの便も出来て繁昌す。 元禄中松平美濃守領地となり、泊宿を仰付られ、夫よりしばらくの間旅人宿ると、一には江戸入口、一には其頃美濃守領分、足立郡浦和蕨辺にありて、其辺の名主百姓が公用として、川越に来る時、道程七八里の処故是非に泊宿を此処にとれるなり。 当代は泊宿を止めたり。
と。 川越素麺の記されたるは何れの頃とも知るべからず。 唯様々の事由により判定する時は、大凡今より百四五十年前、初代松平大和守前後のものならん。 又三芳野名所図絵には美濃守宝永中甲府へ遷るに及び泊宿止むと記せり。
菅原と称する処にあり。 川越通町との境に近し。 社地高し。 天文十六年正月の創立にして、川越六塚の一社なりと云ひ伝ふ。 慶安の検地に際し、除地とせらる。 社地に周囲九尺の老榎あり。
菅原にあり。 天明十六年三月の創立なりとの伝説あり。 名所図絵には寛永元年妙善寺を建てたる尊能法印が勧請と記せり。 付近を天神前と称せしが後に改めたりと云ふ。 慶安の縄入に除地となる。 天明?八年火を失し、古棟札の類を亡へり。 社地に周囲九尺の老杉あり。
天神社の南に接し、天台宗、中院の末寺也。 道人山三心院と号す。 開山は尊能、寛永元年寂す。 本尊子育不動は安産の神として、賽客多し。 名所図会によれば、尊能寛永元年父母の追福のために此寺を立り。 父の法名道仙三心、母の法名妙善大師に囚て、山寺号を定めたりと。 一説也。