烏頭坂
村の北端にして、大なる坂路也、或は雨塘坂、善知坂等の文字を用ゆ。 廻国雑記に、「これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる。
うとふ坂越えてくるしきゆく末を安方となくとりの音もかな
とあるは、果して此地なりや否や。 慶應三年某月某日、勤王の志士、入間郡三芳野村の人桜国輔、飯能の人小川香魚外一人、江戸高縄の薩藩邸を出てゝ京に上らんとするに当り、一たび家郷に父老に見えんがため、郡内に入り、富岡村付近に於て幕の間牒、土地の壮丁一人を斬り、為に博徒に追はれて、此処に馳せ来るの飛報川越藩に達せしかば城兵直に烏頭坂上木戸際に詰め、用意整へて待り間程なく、志士三人長刀を携げ、馳せて関門に入らんとしたりしかば、城兵矢玉を放て之を東方に追ひ、遂に大仙波、河岸付近の水田中に窮迫して、国輔光香を自刄せしめ、一人をして砂新田に於て自刄せしめたりしは、四十五年の昔の事、烏頭坂上当年の悲劇を思へば凄然として志士のために涕なき能はず。