岸は大仙波新田の南に当り、有名なる烏頭坂の下にあり、東京街道の両側に人家列を成し、高階村砂新田と連れり。 戸数八十。

烏頭坂

村の北端にして、大なる坂路也、或は雨塘坂、善知坂等の文字を用ゆ。 廻国雑記に、「これより武士の館へ罷りける道に、うとふ坂といへる所にてよめる。

うとふ坂越えてくるしきゆく末を安方となくとりの音もかな

とあるは、果して此地なりや否や。 慶應三年某月某日、勤王の志士、入間郡三芳野村の人桜国輔、飯能の人小川香魚外一人、江戸高縄の薩藩邸を出てゝ京に上らんとするに当り、一たび家郷に父老に見えんがため、郡内に入り、富岡村付近に於て幕の間牒、土地の壮丁一人を斬り、為に博徒に追はれて、此処に馳せ来るの飛報川越藩に達せしかば城兵直に烏頭坂上木戸際に詰め、用意整へて待り間程なく、志士三人長刀を携げ、馳せて関門に入らんとしたりしかば、城兵矢玉を放て之を東方に追ひ、遂に大仙波、河岸付近の水田中に窮迫して、国輔光香を自刄せしめ、一人をして砂新田に於て自刄せしめたりしは、四十五年の昔の事、烏頭坂上当年の悲劇を思へば凄然として志士のために涕なき能はず。

熊野神社

山下と称する処にあり。 烏頭坂の上に位す。 木立あり。 創立年月詳ならずと雖、元禄六年の検地帳に除地として記されたり。 当時は現社地を去ると六町、南谷と称する処にありしが、幕末の頃、移転したる也。 明治五年村社に列せられ、六年再営、十九年地主神たる稲荷社を末社と定む。 四十二年に至て、村内の神明社(押切にあり)、諏訪社(諏訪前にあり)を合祀せり。

稲荷社

熊野社境内にあり。 元此処の地主神也。 名所図会に大仙波新田宿入口西側木戸際にあり。 妙善寺の尊能法印勧請と記せるは是なるべし。 元禄六年の検地帳に除地とせられたり。 今は熊野の末社となる。

長田寺

高畑にあり。 街道より西に入ると、約一町、小門を入りて前は本堂、左に八坂の小祠あり、傍に板碑倒れたり。 此寺曹洞宗にして、川越養寿院に属す。 開山は上月明梵、元和元年寂す。 聞基は地頭長田氏なるべしと云ふ。

鎌倉街道跡

村の西方にかゝれりと云ふ。