白山神社
藪合にあり。 地頭天野源左衛門此社を建立せりと云ふ。 後延宝六年其孫彦兵衛再建す。 元禄十一年川越領となり、十七年松平美濃守、享保十二年延享三年、宝暦十一年秋元但馬守造営せしこと見えた。 明治に至り村社となり、四十三年村内の熊野社、神明社、稲荷、諏訪の四社を合祀す、神明社は元西裏にあり。 創立年紀不詳なりと雖、寛文六年以来地頭及領主にて数回再営を行ひしこと旧記に存せりと云ふ。
小ヶ谷は村の西南に位す。 入間川に臨めり、戸数九十四、
藪合にあり。 地頭天野源左衛門此社を建立せりと云ふ。 後延宝六年其孫彦兵衛再建す。 元禄十一年川越領となり、十七年松平美濃守、享保十二年延享三年、宝暦十一年秋元但馬守造営せしこと見えた。 明治に至り村社となり、四十三年村内の熊野社、神明社、稲荷、諏訪の四社を合祀す、神明社は元西裏にあり。 創立年紀不詳なりと雖、寛文六年以来地頭及領主にて数回再営を行ひしこと旧記に存せりと云ふ。
村の西南隅にして、入間川の堤防に近し、天台宗にして、川越喜多院末、瑤光山と号す。 創立詳ならず、或は曰く、此寺元禅宗にして北条時頼の開基なりと、寺に其霊牌を蔵す、形式文字後世のものにして、恐らく最明寺の名称より附会したるものと覚ゆ。 然も寺の剣立は比較的古く、其寺観も亦堂々たりしものならん。 寺の近傍に古碑出づる所あり、又坊の跡、大門の跡等東に存し、南に存して、寺域の大なりしを語るが如し。 墓地に建武二年外数基の板碑あり。 風土記に出せる元禄二年奉鋳時頼開基のことを刻せる鐘は二三十年前失へりと云ふ。