野田及野田新田

野田及野田新田は共に村の東南部に位し、高台の地及之に近き地方を占めたり、野田は元川越町大字野田と一村にして慶長二十年の文書には野田新田と記されたりと云ふ。 其川越分、田面沢分と二分せられたるは何れの頃なるか末だ聞くことあらずと雖、思ふに恐らく二十二年町村制を定の頃にあらんか、野田新田は正保元禄の間に開けたり。 野田及野田新田を合して戸数二百二。

稲荷神社

野田址上西にあり。 創立不明なれども、慶安元年の検地帳に社地の記載あり、天明二年正官御殿預。 摂津守荷田宿禰より正一位授与の証あり。 明治二年村社となる。 近年野田村内の八坂日枝両社を合祀せり。

八幡神社

野田新田八幡にあり。 寛治五年源義家の勧請と称すれど信ずべからず。 明治五年村社に列す。 更に風土記を閲するに、「社は御茶湯塚と云へる塚上に建つ、川越養寿院の持、御茶湯塚とは神祖此辺遊覧の時、此塚上に休息せられし折、塚下の宝林庵より御茶を奉りし故なりと。 或は然らん。 宝林庵は今廃寺となる、付近を今も御茶カン坊と呼べり。

宝林庵に就て

風土記に曰く。 川越養寿院の持、境内に開基卷光院雲誉西居士、享保三年三月二十三日卒すと云ふ碑あり。 こは俗名新藤平四郎吉安川越志義町に住せし由、又中興開基高節斉省日孝居士、寛延三年七月八日俗名高山甚五兵衡宜繁とあり、これは秋元但馬守藩なりと云ふ。 云々。

鍋新田

野田新田の一小字也。 鍋屋新田の略にして、今は川越神明町なる鍋屋矢沢氏は北足立郡川口町より来て川越代官町に住し、後住地の徴収せらるゝに及て、替地を此処に下附せられし也。 移住の年代明ならず。

安生老

豊田本村を主とし、一部野田新田に及べり。 其の境界に白山神社を設く。 其の来歴に関する伝説は大田村の条に述べたり。

田島新田

安生老の北、川越町に至るの間の一区にして、古より一般に田島新田を以て通用せらる。 野田に田島氏あり。 此処は其開墾したる新田なるにや。