王政維新の後、廃藩置県、郡県制定、地方自治施行の事業漸を以て行はれ、国基全く定るに至る、地方制の変遷を見れば実に苦心の跡歴々たるを覚ゆ。
明治元年八月支配地及釆地は凡て之を収容して、武蔵県となし、知県事古河一平之を管す。 二年二月に至り、之を品川県と改め、同年八月更に之を韮山県に移し、領地は二年之を藩と改称し、川越藩、岩槻藩等と名け、次で四年七月に至り、愈々廃藩置県の英断に出づ、然も先づ旧藩のまゝに従て、之を川越県、岩槻県等となし、藩主を以て知事に充つ、此時に当て郡内を見るに、川越、岩槻、古河、前橋以下の諸県、処在に散布錯綜し、之に交ゆるに韮山県を以てす。 其一歩を進めて、全体を円満に統括し得べき制の必要となるや諭なき也。 果せる哉四年十一月に至て、前述諸県を全廃し、而して郡内及付近諸郡を以て入間県の下に一括し、県衙を川越に定めたり。 先之社寺領は既に上地となりて、韮山県に合したるあり、或は是より以後上地して入間県に合したるあり。 何れも逓減禄を以て旧領に代ヘたり。 其後入間県と群馬県を合するの必要は明治六年七月に至て、熊谷県の設置となり、入間県は其中に入り、九年旧群馬県と分れて、旧入間県に合するに当時の埼玉県を以てし、此に於て今日の埼玉県は始めて完成し、浦和町は県庁所在地となれり。 以上を県制の沿革とす。