河越及河越家

河越及河越氏の名既に鎌倉時代よりあらはる。 蓋し河越家は所謂坂東八平氏の祖村岡良文に出て、秩父、江戸の諸氏と同族也。 偶々河越にあるに依て氏とせるのみ。 源頼朝兵を関東に起し、覇府を鎌倉に創めしに当て、太郎重頼、小太郎重房等あり。 畠山重忠等と共に馳せて之に従ふ。 東鑑元暦元年正月廿日範頼義経宇治勢多を破りたる条に、重頼及重房の名出でたり。 然るに天下一統し、義経偶々頼朝の嫌忌を被るや、同書文治元年十一月十二日の条に、今日河越重頼が所領等收公せらる。 是義経の緑者たるに依てなりと見え。 二年八月五日武衛文書の条に新日吉の社の御領武蔵国河越の庄年貢の事を指命せりが、同三年十月五日河越太郎重頼、伊予前図司義顕(義経)の縁座に依て誅せらると雖、遺跡を憐愍せりめ給ふの間、武蔵国河越庄に於ては後家の尼に給はる所に云々とあり。

建保四年七月廿九日に至り河越次郎重時同三郎重員、の名初て見えたるは重頼が幼息にや。 又承久三年五月十四日宇治川合戦に討死の人々の内河越二郎とあるは嫡男重時にて、其後三郎重員家を継ぎけるにや。 更に寛喜三年四月二日重員武蔵国総検校職に任ぜらる。 重員の子掃部助泰重の名、文暦二年より八年八月まで三度、将軍出御の供奉随兵たり。 嘉禎四年頼経将軍上洛の時にも見え、其後も見ゆ。 其外河越五郎あり河越小次郎あり。 其後五郎重家あり。

建長三年五月八日より初は四郎経重と号し、後に掃部助経重と名乗り将軍に仕へたるものあり。 又小次郎なるもの見えりは経重の子なるにや。 経重後に遠江権守と称す。 川越町養寿院に存する、新日吉山王宮文応元年の鐘は実に経重が大檀那として、寄進せりものにかゝる。 東鑑には文永三年経重の名見えたる後は河越氏の事全く見えず。

更に又少く遡れば太平記に、千葉よりは忠常の舎弟忠頼息中村太郎中将川越に出張しとあり。 保元物語に河越、平家物語に河越小太郎重房院の御馬河越黒など見え、盛衰記に河越重頼知盛の馬河越鹿毛、義経記に二位殿川越太郎を招して云々あり。 南北朝時代に降れば、太平記に観応三年小手指原合戦の時、将軍の麾下へ馳参する人の中に、河越弾正少弼等あり。 文和年中足利基氏入間川宿陣の時、京都加勢として畠山国清東国の兵を具しし条にも河越弾正少弼も同じく上京せしを載す。 年代より推せば弾正少弼は経重の曾孫にも当るならん。

鎌倉大日記南方記伝及桜雲記鎌倉九代記等には正平二十二年二月宮方平一揆葛山所領の事に麓き蜂起し武州河越城に籠り、基氏息氏満を遣し、葛山備中守に軍兵を添へ河越城を囲ましめ、六月十七日落城したるとを記せり。 河越城一たび茲に陥り、河越氏も既に史上に跡を没し、茲に第一期河越を結了したりと云ふべし。