築城の後、城は持朝居住せしものゝ如く、大草紙には、文正元年九月六日上杉弾正少輔入道持朝、河越にて、逝去す、五十二歳、法名広威院政道朝と号すと。 文明の頃は五十子の対陣あり、山内扇谷の二家は古河に対抗し、戦陣を布き、従て太田道灌上杉定正に従て東奔し西走したりしも此頃にあり。 而して河越は其根拠とも覚しき也。 次で山内対扇谷の軋轢を生ずるや、扇谷の川越に対するに、 山内は上戸に営せしものゝ如く、 宗祗終焉記に、武蔵国の内入間川のあたり、上戸と云ふ所は今、 山内の陣所なりとあり、 上戸と川越と其間一里に足らず。 以て当年逼圧の状を見るに足る、 (而して上戸は第一期川越の旧地也)。
其後小田原の勃興するや、川越城は、後北条対両上杉の決勝戦地となり、 天文六年三ッ木ヶ原の一戦に大敗して、上杉氏は多年経営の拠地を追はれ、 次で天文十四年捲土して川越城下に殺到し来りしも、翌年四月有名なる川越夜戦に再び大敗し、 上杉氏の運命殆ど定まるに至れり。 かくて川越城は北条氏の手に確実に保有せらるゝこと、四十五年、 其間北条綱成、大導寺直繁、同直宗等城将たりしものゝ如し。 天正十八年小田原攻囲に当り、直宗は山道口の応援として、上州松枝城にありしが、 松枝開城し、直宗降るに及び、河越の部下亦此例に従へり。 故に又八王子韮山等の如き壮烈なる戦争を見ずして終れり。