以上の如き沿革を有し以上の如き概観を保ちし河越城も明治維新廃藩置県の後は漸次荒廃し、西大手は崩されて、警察署、川越町役場、蚕業取締所、入間郡役所等の官署相連り、外曲輪には川越北尋常小学校、川越会館等設けられ、僅に旧観を保ちし南大手も今や高等小学校敷地拡張のため、其跡を失へり。
更に三丸より本丸の西部へかけては県立川越中学校設置せられ、二丸には浦和監獄川越分館ありしが、数年前川越町の南部に移されて今は空地を存す、本丸以東天神祠付近の城塁は概して旧形を保ちしも近頃精々其形態を失ひつゝあり、新曲輪には今隔離病舎を設く、
埼玉県史蹟名勝天然紀念物調査報告 : 自治資料. 第3輯 史蹟之部(info:ndljp/pid/983813)より。
大正十三年調査
埼玉県史蹟名勝天然記念物調査会委員 川口彜雄 調査
川越城阯
川越市大字川越
別紙略図に述べたるが如し。
本城の建築者に就きては、請書異説あり。然れども長禄年間より文明年間にかけて、太川氏が扇谷上杉氏の命を受けて、築造せしと云ふは、諸家同説なり。木城が関東の名城にして、建造以来上杉北条両氏争戦の巷となり、江戸時代に入りては、酒井、堀田、松平、柳沢、秋元等の諸氏之を歴守し、松平氏を経て、明治維新当時には、松井氏の居城となりしことは、史冊に昭々たり。
然るに雄新後或は教育の発達、或は工業の進歩等の為め、かゝる名城も学校の敷地となり、工場の建設を見、次第に旧態を破壊せられたり。この有様にて更に幾年の星霜を閲せんか更に其の甚しきを加ふるは言ふまでもなかるべし。故に其の本丸阯、大手門阯、南門阯、富士見櫓阯等の如き主要なる遺阯に碑石を建設し、城塁並に城濠の残存せるものゝ破壊を防止するなどの方法を講すること焦眉の急に属すと信す。