封建都市としての川越町

屋敷町

江戸時代に於ける川越市街は寛永以前と以後に於て、雲泥の差あるべく、松平信綱の城地拡大、市区改正の如きは甚だ後世に大なる影響を残せるもの也。 其後松平大和守の頃に至り封建都市としての川越町は正に黄金時代に達したるものゝ如し。 依て当時を主として、江戸時代に於ける川越町の概観を描かんとす。 当時の川越は即ち今の川越町大字川越の地にして、之に町郷分の地方を附加し、而して川越は屋鋪町と城下町とに分れたり。

屋鋪町は即ち北久保町、その東の続き広小路、清水町、堅久保町、同心町、大工町、中原町、六軒屋即中原町の南、瀬尾町、新田町、通組町即ち今の通町、一番町、二番町、三番町、西町、黒門町、蔵町、宮ノ下即ち今の宮下町、裏宿、 広済寺長屋即ち今の坂下町横町、坂下町、坂上町、四軒屋即坂上町の南、御廐下是なり。 時代を上下して此等町名にも増減ありと雖、屋鋪町は何れも区割整然、侍の居宅の形式一定せり。 例へば通組町に就て之を見るに、其長さ七町四十五間俗に八町と云ふ。 両側皆組屋敷にて、左右合屋敷の数、百十余、一屋敷の坪数八畝なり。 而して二十戸隔てゝ九畝の屋敷一を設く。 是れ松平伊豆守の時先手足軽一組二十人宛にて、一組を限て夫々屋敷を附与し、之に小頭一人を置きたる地割也。 又一組内は裏伝ひに隣家に赴くべき内道を作り、扶持の下附、命令の伝達等に便ぜり。 かくて一組毎に使丁一人を給はり、小頭屋敷の内に二間三間の小屋を建て、一組の者宿番の際夜具の持運等に当らしめきと云ふ。

更に仲間小者雑人等のためには長屋若くは部屋と称するもの各所に設けらる。

中原町に於ける古長屋、其南方の新長屋の如き是なり。 其他同心町は松平伊豆守の時、同心に賜はり、片側五軒づゝ左右十軒の家宅を設け、一屋敷間口十間を占めたり。 此町同心は伊豆守城替の後も此所に留りぬ。 鉄砲場、的場、馬場は各所に設けられ、蔵町には久しくが蔵あり、厩下には廐あり、鷹部屋は徳川氏の鷹匠あり、元禄の頃将軍綱古殺生禁断の令を下すに及び鷹匠去りしと雖、坂上町には、犬小屋新に設けられたり。 之を要するに屋鋪町は寛永以後其規模大抵定まり、家屋の形式こそ古風なれ、其整然たる区計割、殆ど今日の殖民地の新市街の如かりしなり。

城下町

城下町は城の西及南に接続し、南北約十町、東西四五町、其中、 本町江戸町高沢町南町北町を以て上五丁町と云ひ、 鍛冶町鴫町上松江町多賀町下町を以て下五丁町と云ひ、 併せて之を川越十個町と称す。 幕末の頃は上下の五個町を称すること稀にして、一般に十個町と称し、十個町内に居住するものは、大に誇りとせりと云ふ。

十個町の街道も松平伊豆守の頃大に改修を行ひ、屈曲を直し、狭隘を広め、外観大に整へり。 而して各家に軒先を附す。

今十個町の個々に就て少しく説明を試みん。

本町

大手正面、東西の大路にて、後北条の頃までは本宿と称せしが、徳川時代城下の繁栄に件ひ、何時しか本町と唱へ来れり。 文化の頃人家六十余あり。 北条氏の時代には江戸町も本町即本宿の中なりしならん。

江戸町

西大手より南へ走れり。 元本宿の中に属し、一たび東町と称せしことありしが、やがて江戸町と唱ふるに至れり。 蓋し西大手を出でゝ江戸に赴かんとするもの、必ずや先づ此町を通過せざるべからず。 江戸町の名偶然にあらざる也。 文化の頃人家約六十、問屋ありて諸方人馬の継立をなせり。 或は曰く此街市中第一の繁華なるにより旁以て江戸町と唱へ習はせりと。

喜多町

札の辻より北に当るを以て北町と称せりと云ふ。 更に以前は東明寺門前町と称し、東明寺惣門の跡は幕末の頃まで町内東側門屋と称する家の辺に存せりと云ふ。

志多町

喜多町の北に続き、土地低きを以て下町の称あり。 文化の頃戸数四十七。

高沢町

本町の西に続き、竹沢九郎と云ふ人起立せる処なるを以て竹沢町と称し、高沢町と訛せりと云ふ。

南町

札の辻より南にあるを以て名く。 徳川時代の初めには灰市場とて灰を販きしもの居住せしが、幕末の頃には全町第一の繁華の巷となれり。

鍛冶町

南町の南に接し、 天文弘治の頃小田原属城の時に当て、 鍛冶平井某相模国より此処へ来住し、 天正の頃平井の弟子鴫惣右衛門、鴨工通、加藤甚兵衛などを始め十余人皆此街に居る。 依て鍛冶町と名けたり。

志義町

初馬場なりしが、後鴫善太と云へる鍛冶草創して町とせり。 依て鴫町と云ひ、後志義町と記す。

多賀町

元来桶師取立の町なるを以て、箍町と名け、後多賀町と記す。

上松江町

江戸町の南に続き、 往古此辺より仙波地方へかけて渺々たる大沼にて、 漁人此より鱸を得たり。 其味美にして漢土松江の巨口細鱗にも劣らずとて松江町と称せりとの伝説あり。 俗説採るに足らず。 蓋し松江町は松郷の地と関係あり。 然れど郷江音相通ず、若くは草体相似たりとの説は如何にや。 松江町とは寧ろ松郷に因みて人為的に指定したる名称ならんと信ずる也。

四門前町

養寿院門前町、 蓮馨寺門前町、 行伝寺門前町、 妙養寺門前町を四門前町と云ふ。 何れも市店軒を連ねたり。 養寿院門前町に属するは 南町よりの入口、 北横町、 高沢町よりの入口、 杉原町近辺の三方面にして、 行伝寺門前町は南町より入りて大門に当り、 南に折れたる町を云ふ。 又それより杉原町へ赴く処を新門前と云ひ、元和年中に開けたりと云ふ。 妙養寺門前町は志義町突当より門前の通、 及六軒町の横町を西へ折れて今の境町へ出る処なり、 但其片側だけを称す。 蓮馨寺門前町は猪鼻町の南の続きにて、 殆ど今の連雀町に該当し、惣門より東を堅門前と云ひ、新田町の方へ赴く通を南門前と云ふ。 此町文化の頃人家百十八軒ありしと云ふ。 鉦打町も此町の一部なりき。

町郷分

町郷分は松郷村及脇田村にして、城下町十ヶ町の持添耕地也。 元は城下町十々町も郷村なりしを町並となるに及びて、其割残りの耕地即町郷分と称せられたるなれば、十個町、町郷分、其区画犬牙して、一々明に定め難し。 殊に町郷分にして市街地たるに至れるも少からず。 上松郷は十々町に入り、中下松郷、町郷分となりて存せり。 松郷の内屋敷町たるもあり。 以下先づ松郷を説て脇田に及ばん。

六軒町

昔榎本勘解由と云ふ人初めて此所に住し、住家六軒あり、依て名く、又此町の下(シモ)を喜之助町と云ふ。 幕末の頃は妙養寺前より南、 出はずれの並木際迄を凡そ六軒町と云へり。

境町

古名を餌差(エザシ)町と云ふ。 鷹部屋より妙昌寺前まてを云ひ、昔徳川家の鷹部屋ありし頃は、餌差十人此所に住したり。 然るに其地西側は野田村にして、東側は松郷分なるを以て、依て改めて境町と名けたり。

大工町

昔大工某が取立てし町なるを以て名く。 其一部は屋敷町にして一部は町家也。 其境界に杉並木を設け火災に備へたり。

鉄砲町

初茶園ありしが、松平伊豆守の時、近江国より鉄砲師国友佐五右衛門なるものを召抱へ、 上松江町、 南久保町入口の南角に屋舖を与へしが、伊豆守国替の後も松平美濃守に仕へ、茶園の地に移り、一族此所に住せしを以て名く、国友は後甲府に移り、鉄砲町は行止まりの処なるを以て享保十五年猪鼻町へ道を通じたり。

久保(クボ)町

地形低きを以て名く。

其他中原町、黒門町、通組町、瀬尾町の如きは屋敷町となり、又時代により其外珍なる小町名も存したるものゝ如し。

脇田村は猪鼻町、新田町、西町、一二三番町の辺を含む、猪鼻町は昔脇田村の名主猪鼻氏が草創せる処なるを以て名くと云ふ。 猪鼻氏は天文年中蓮馨寺開山感誉上人に従て、相州より此所に来住せりと云ふ。 新田町以下は屋舖町に属す。

此外古書何れも町郷分の中に加へずと雖、事実に於て明に町郷分と同じきもの少からず。 例へば杉下は松郷分の耕地に囲まれ、野田は境町に於て松郷分と相接して、然も十念寺妙昌寺、五段屋敷の如きは此地に属せし也。

寺井 寺井松郷、寺井伊佐沼は古寺居と称し、一村にして、 東明寺に属せし地なりしが、 東明寺衰ふるに及て、 何時の頃よりか、三村に分れ、其寺井松郷にして城下町乃至町郷分と入会へるもの杉原町あり。 五ヶ村は或は五戸の人家ありしを以て五家村と名けしなりとの説もあれど、蓋し誤にして、 城下町下町橋(今の東明寺橋)の付近に寺井、寺井伊佐沼、寺井松郷、 東明寺及町郷分、 五ヶ村の高札場ありしを以て名けたるものなるべく、又三ヶ村と称するは明に寺井三ヶ村にして前述の三村に外ならず。 高沢町の対岸石原町の如きも元小久保村たりし也。

かくて今日の東京市が漸次市域外に人家の増築を生じて、東京市ならぬ東京市を生ぜるが如き例は其形を小にして、 江戸時代の川越町にも行はれて、 川越町の本地は地既に足らず。 町郷分も住し得べきは既に住し、 而して川越町ならぬ川越町は寺井、 三ヶ村、東明寺、 小久保、野田に及び、 既に事実に於て川越町七大字は渾融合一せんとしつゝありし也。 而して明治のはじめ、小仙波を併せ、今日の八大字全く完し。