六軒町
昔榎本勘解由と云ふ人初めて此所に住し、住家六軒あり、依て名く、又此町の下(シモ)を喜之助町と云ふ。 幕末の頃は妙養寺前より南、 出はずれの並木際迄を凡そ六軒町と云へり。
町郷分は松郷村及脇田村にして、城下町十ヶ町の持添耕地也。 元は城下町十々町も郷村なりしを町並となるに及びて、其割残りの耕地即町郷分と称せられたるなれば、十個町、町郷分、其区画犬牙して、一々明に定め難し。 殊に町郷分にして市街地たるに至れるも少からず。 上松郷は十々町に入り、中下松郷、町郷分となりて存せり。 松郷の内屋敷町たるもあり。 以下先づ松郷を説て脇田に及ばん。
昔榎本勘解由と云ふ人初めて此所に住し、住家六軒あり、依て名く、又此町の下(シモ)を喜之助町と云ふ。 幕末の頃は妙養寺前より南、 出はずれの並木際迄を凡そ六軒町と云へり。
古名を餌差(エザシ)町と云ふ。 鷹部屋より妙昌寺前まてを云ひ、昔徳川家の鷹部屋ありし頃は、餌差十人此所に住したり。 然るに其地西側は野田村にして、東側は松郷分なるを以て、依て改めて境町と名けたり。
昔大工某が取立てし町なるを以て名く。 其一部は屋敷町にして一部は町家也。 其境界に杉並木を設け火災に備へたり。
初茶園ありしが、松平伊豆守の時、近江国より鉄砲師国友佐五右衛門なるものを召抱へ、 上松江町、 南久保町入口の南角に屋舖を与へしが、伊豆守国替の後も松平美濃守に仕へ、茶園の地に移り、一族此所に住せしを以て名く、国友は後甲府に移り、鉄砲町は行止まりの処なるを以て享保十五年猪鼻町へ道を通じたり。
地形低きを以て名く。
其他中原町、黒門町、通組町、瀬尾町の如きは屋敷町となり、又時代により其外珍なる小町名も存したるものゝ如し。
脇田村は猪鼻町、新田町、西町、一二三番町の辺を含む、猪鼻町は昔脇田村の名主猪鼻氏が草創せる処なるを以て名くと云ふ。 猪鼻氏は天文年中蓮馨寺開山感誉上人に従て、相州より此所に来住せりと云ふ。 新田町以下は屋舖町に属す。
此外古書何れも町郷分の中に加へずと雖、事実に於て明に町郷分と同じきもの少からず。 例へば杉下は松郷分の耕地に囲まれ、野田は境町に於て松郷分と相接して、然も十念寺、妙昌寺、五段屋敷の如きは此地に属せし也。
寺井 寺井松郷、寺井伊佐沼は古寺居と称し、一村にして、 東明寺に属せし地なりしが、 東明寺衰ふるに及て、 何時の頃よりか、三村に分れ、其寺井松郷にして城下町乃至町郷分と入会へるもの杉原町あり。 五ヶ村は或は五戸の人家ありしを以て五家村と名けしなりとの説もあれど、蓋し誤にして、 城下町下町橋(今の東明寺橋)の付近に寺井、寺井伊佐沼、寺井松郷、 東明寺及町郷分、 五ヶ村の高札場ありしを以て名けたるものなるべく、又三ヶ村と称するは明に寺井三ヶ村にして前述の三村に外ならず。 高沢町の対岸石原町の如きも元小久保村たりし也。
かくて今日の東京市が漸次市域外に人家の増築を生じて、東京市ならぬ東京市を生ぜるが如き例は其形を小にして、 江戸時代の川越町にも行はれて、 川越町の本地は地既に足らず。 町郷分も住し得べきは既に住し、 而して川越町ならぬ川越町は寺井、 三ヶ村、東明寺、 小久保、野田に及び、 既に事実に於て川越町七大字は渾融合一せんとしつゝありし也。 而して明治のはじめ、小仙波を併せ、今日の八大字全く完し。