現今の喜多院及小仙波

現今の喜多院は旧喜多院の本境内に限られ、大師堂、慈眼堂、方丈客殿庫裡、長楼、五百羅漢、経蔵等あり。 正門は東面し、別門は朱塗の楼門にして北面せり。 近来星岳保勝会なるもの組織せられ、一千年来の勝地を後昆に伝へん計画をなし、境内既に半公園化し而して今や諸堂頗る旧観を改めんとするものあり、即ち正門外の多宝塔は大師堂の傍に移り、其付近二三の堂舍新築せらるべく、庫裡の如きは今や全く旧態を改めたり。

東照宮は院の南に接し、一丘の上に位す、曽て輪奐の美全県に冠たりしと称せられし、其社殿墻垣も漸く廃順に傾きかけて、衰草寒烟の趣あり。 古今威たえず。 宮の南に中院あり。 境内静寂、二個の大なる垂糸楼あり。 東照宮の東は南院跡也。 更に喜多院の正門前には旧慈恵堂跡あり。 日枝神社あり。 小仙波の鎮守也。 閻魔堂あり。 喜多院の墓地なり。 喜多院に三代将軍誕生間あり。 三代将軍手植桜あり。 友成の太刀、岩佐又兵衛の三十六歌仙は国宝に属し、其他、屏風二雙、鷹図十二面あり、中院には恵心僧都の二十五聖書あり。 其他宗版和版一切経あり。 庫裡の前に存する鐘は形状甚だ古雅にして、

武蔵国足立郡鳩井郷筥崎山

依悲母命奉鋳也

正安二年庚子三月十八日

沙弥慶願

大工 源景恒

とあり。 里人、天文の戦に上杉軍が小仙波耕地に遺棄し去りたるならんと云へり。 慈眼堂の後方歴代の墓石中二大板碑あり。

院の北には百花園あり。 四時の花卉絶えず。 東北隅に老杉あり。 杉下清泉常に涓出して、泉池の趣頗る愛すベし。

小仙波は即ち大宮及志木街道の要路に当り、人家道を挟て相連れり。 其北に尾崎台あり。 東に貝塚と称する所あり。 宿の出口より東南二三町の間也。 蓋し石器時代人民の遺跡ならん。 今は貝を出さず。 然れども其西南、高台常願寺と称する処より曽て島田石二個を発見したるとあり。 常願寺は之れ同名の寺院の存せし処、今も往々にして其古瓦を見出すと云ふ。 然も寺の年代既に究むベからさる也。

其東南に接して厳島神社あり。 泉池あり。 其南に狼山あり。 其南を向山と云ふ。

更に東方、水田の中僅に葦葭の見えたるは是れ双子池にして其中央今も水深を知らずと云ふ。 里俗旱天に此地に来て雨を乞ふ。 更に東方に南畑陣あり。 南畑の城兵、松山を救はんがために、此地に来り陣し、偶々松山陷ると聞て、引き返せし処なりと云ふ。 蓋し地理にも合せり。 恐くは然らん。

小仙波に古来怪話多し。 此中幾分事実に基けるもあり。 三位稲荷説話、蛇龍棲息説話、七不思議説話の如き是也。 七不思議に至ては必ずしも其指す所の事一定せるにあらざるが如しと雖、琵琶橋、明星井、幽霊杉、摺鉢穴、禁鈴、摺子木、底知れずの穴、なりと云ふあり。 或は此一二を除きて八反畑、又は片葉の葦、双子池を加ふるものあり。 郡内に此外七不思議説話の存する例は元加治村野田円照寺々庭にあり。