神社仏閣

三芳野神社

旧城内にあり。 創立不詳。 大同二年等の説は今遽に信じ難し。 祭神は素盞鳴尊、奇稲田姫命、後菅原道真をも加ふ。 県社也。 世或は式内物部天神社に擬し、或は中氷川神社に擬せり。 然れども未だ詳ならざる也。 或は川越城の移転に伴ひ、的場村天神社を移せるなりとも云ふ。 然るや否や。 社殿壮麗、境内梅樹及桜樹あり。 社後の初雁杉は今僅に老古幹を存すと雖、古来有名也。

高松院は,三芳野神社の別当。

氷川神社

宮下町にあり。 創立不詳、欽明天皇八年と伝ふれども拠を知らず。 世或は式内中氷川神社に擬し、或は三芳野神社の遙拝所なりしと称す。 両説共に極端に失せるの感あり。 社殿清素にして、境内広潤、老巨欅多し。 郷社にして、大字川越、寺井、東明寺等の鎮守なり。

日枝神社

小仙波にあり。 喜多院創立の頃比叡山より勧請せりと称す。

八幡神社

通町にあり。 酒井讃岐守の勧請と云ふ。 社殿は元西面せしが何時の造営の頃よりか、東面して通町に通ずるに至れりと云ふ。 村社にして、脇田及通町の鎮守也。

熊野神社

連雀町にあり。 創立不詳。 、村社にして、連雀町の鎮守也。 社殿清浄にして境内に桜樹あり。 又傍に秋葉山を祭れる一小丘あり。

神明神社

神明町にあり、

川越町の地は元古墳の少からざりし処と覚しく、市街の成れる頃に当ても古墳上若くは其崩解せる跡に設けられたる稲荷の小祠少からず。 或は川越六塚の稲荷と称し、或は川越七社の稲荷と称し、其各社の由緒に川越築城当時を云々するが如きは、蓋し冥々の中依て来れる所を語るにあらずや。

思ふに古墳の中に塚穴あり。 狐狸の巣窟に適せり故に古墳と狐狸の住居は往々にして一致し、而して老狐と稲荷とは俗間に殆ど之を同一視するに見れば、古墳にして稲荷を設けらるゝものある、決して偶然ならざるを知る也。 風土記を案ずるに川越六塚の稲荷とは高沢町、同心町、本町。 、志義町、城内、浮島とあり。 然るに宝暦三年に成りし多濃武之雁には川越七社として。 、古塚稲荷、小夜稲荷、榎本稲荷、鳥山稲荷、本阿弥稲荷、東明寺稲荷、芝野稲荷とし、殊に末枯松稲荷(城内)、民部稲荷、浮鳥稲荷を掲げたり。 川越素麺にも七社と云ひて六塚と云はず。 思ふに六社と云ひ、七社と云ひ、必ずしも一定の形式に拘泥すべきの理あるにあらずと雖、著作の年代古きに於て、稲荷の社地、旧川越の市街地近傍に集中せられたる点に於て、多濃武之雁に出でたる所は、風土記の説よりも優れるに似たり。 然も七社と云ひ六塚と云ふ。 今は一二其跡を明にせざるものなきにあらざる也。

六塚稲荷神社

高沢町にあり。 風土記には六塚の中五社を廃し、此処に合し、依て六塚稲荷と云ふと載せたれども、他の五社も依然として存立するに見れば必ずしも従ふべからず。 或は此を親塚稲荷と云ひ、社地も比較的広潤なれば、抑も六塚若くは七社の首位にありしにもや。 多濃武雁には芝野稲荷と記したり。 芝野の名恐らく古き称ならん。 社地高台にして赤間川に臨み、風光佳也。 桜樹少からず。

本町稲荷神社

本町にあり。 元は榎本氏の屋敷内に当れり。 依て榎本稲荷とも呼び、又大屋敷稲荷とも称す。

烏山稲稲神社

志義町にあり。 川越築城の時、大田道真、城の西南樹林の欝蒼たる処あるを望み、之を開かんとするに当て、一円筒を得たり、筒中文書あり。 依て此地に稲荷の社を設く、樹林繁く鳥の棲息すると夥しきを以て鳥山稲荷神社と名くと云ふ。

古塚稲荷社

裏宿、進喜四郎と云へる人の屋鋪内にありきと云ふ。 七社の一也。

小夜稲荷神社

裏宿今井氏宅地内にあり。 新田義貞の妾小夜姫の墓ありし処なるにより小夜稲荷と呼び、又志願成就したるものは鏡を納ひるを以て鏡稲荷とも称したりき、社の後方大なる榎あり。 枝葉繁茂して三百坪を掩ひたりきと云ふ。

浮島稲荷神社

久保町の東、浮島にあり。 浮島の辺、古沼沢にして偶々陸えとなれるが如く、地を踏で振動すれば今尚浮動す。 社地は芝地にして、周囲に松の一叢頗る風光を添えり。

窪稲荷神社

通称公孫樹(イテフ)久保にあり。 魚売長兵衛の信心物語あり。 公孫樹の大木二、其華表前に天に冲す。

現在では,「いちょう窪の出世稲荷」と呼ばれている。

埼玉県川越市松江町1丁目7

本阿弥稲荷社

鉦打町にあり。 町に住せし本阿弥の勧請也。

民部稲荷社

今如何にせしやを知らず。 此社に関しては、梵心山老狐の物語伝へらる。 黒門町の辺にありしにや。

久太郎稲荷社

六軒町にありしが、今如何にせしを知らず。 久太郎狐の物語あり。

大榎稲荷社

西町にあり。 榎は既に枯れたり。

大部屋稲荷社

江戸町裏にあり。 古、大部屋の傍にありし。

雪塚稲荷神社

南町にあり。

稲荷神社

杉下にあり。

稲荷神社

猪鼻町にあり。

薬師神社

多賀町にあり。 鐘楼下に位す。

金山神社

鍛冶町にあり。 宅地内也。

愛宕神社

石原町にあり。

愛宕神社

石原町にあり。

厳島神社

境町妙昌寺下にあり。 赤間川に沿ひて、池塘あり。 松林あり。 風景佳也。

養寿院

南町にあり。 曹洞宗也。 寛元中河越経重の開基と称すれど未だ遽に信ずる能はず。 境内に川越太郎重頼の墳と称するものあり。 又門内に重頼の碑を建てたり。 寺堂大也。 其鐘は即ち文応元年、平経重の河肥庄新日吉山王社に寄進せる所のもの也。

蓮馨寺

猪鼻町にあり。 浄土宗也。 関東十八檀林の一と称せらる。 開山感誉は川越城主大道寺駿河守の姪なりとかや。 徳川時代に入りて益々隆昌し、本堂方丈庫裡鐘楼の外、地蔵堂、五智堂、教海堂、学寮其他小社諸堂甚だ多く、壮大華麗なる伽藍なりしが、明治二十六年火災のために鐘楼の外、全山遂に鳥有となれり。 現今の本堂以下は其後の苦心経営に出づと雖、寺観の盛衰古今日を全うする能はざる也。

行伝寺

南町にあり。 日蓮宗、永和年中の起立なりしと云ふ。 寺は元城中内廓の処にあり、城廓築造の際に当ては其儘たりしが、天文年中北久保町の辺に移され、元和五年火災に罹り、六年今の処に移れりと云ふ。 寺堂大にして、境内幽邃の趣あり。 垂糸桜あり。

広済寺

喜多町にあり。 曹洞宗也。 天文の頃大道寺駿河守政繁が起立せし処なりと云ふ。 後上野の人本田右近親氏と云ふもの中興す。 本堂大にして、境内に金刀比羅神社あり。 又、古はシャプキバゞの塔ありて信仰者絶えざりき。 今境内に存する不得要領なる石塔は是ならん。

東明寺

志多町にあり。 古の大寺院也。 時宗にして、第二世遊行上人の開山也。 天文十五年川越夜戦に兵火に罹り、爾来又振はずと雖、其より以前は今の東明寺及寺井と称する地方一円此寺の寺領たりし也。 境内に稲荷の祠あり。 又傍に富士塚あり。 此辺川越夜戦の激闘地にして、髑髏刀鎧等今も往々出づることありと云ふ。

真行寺

宮元町にあり。 一向宗也。 開基を真行尼と云ひ、真行尼に就て一の伝説あり。 曰く尼は武田信玄の妹にして、武田氏亡滅の後、坂戸町上吉田に来り住し、次で川越に来りて城下町改(江戸町)の辺に住し、夫より宮元町(元の寺井宿)に移て、一寺を立てしと。 真偽保すベからずと雖、或は武田氏残党などの婦女逃れ来りしにや。

妙養寺

志義町西端より、境町にかゝれり。 日蓮宗也。 天文七年の再興にして、古は南久保町の辺に存したりしが、其後現今の処に移り、門前町等も生じて、江戸時代は隆盛なる一寺なりき。

法善寺

鍛冶町にあり。 一向宗也。 古は真言宗にて丹波国にありしが、寛正元年其住僧此地に移住し、此寺を立てたり。 其後浄土真宗に転ぜり。

本応寺

石原町にあり。 日蓮宗也。 徳川時代初期の創立也。 仁王門、経蔵等あり。 境内閑雅也。

栄林寺

杉原町にあり。 曹洞宗にして、酒井忠利の伯母、玉宝栄林大姉の開基也。 元裏宿小夜稲荷の辺にありしとかや。

長喜院

南町にあり。 曹洞宗にして、広済寺に属す。 天文永禄の頃、大導寺駿河守の甥、大導寺権内長喜と云ふもの此地に住せしかば、其跡を一寺となし長喜院と号す。 院の正門は元川角村西戸山本坊の正門なりき。

見立寺

高沢町にあり。 赤間川に臨める高台也。 浄土宗にして、元蓮馨寺建立の時設けられたる仮堂を一寺とせるものなりと云ふ。 故に建立寺と称し、改めて見立寺と書す。

大蓮寺

見立寺と同宗同末也。 而して同時代の建立也。 其昔門前にありし爺榎姥榎の両大木は享保年中伐探せりと云ふ。

十念寺

境町にあり。 時宗也。 天文以前の創立也。 境内に瘡守稲荷社あり。 秋元但馬守藩中某の住宅内にありしものを移せしものにして信者多かりき。

光西寺

南町にあり。 養寿院門前にあり。 元養寿院所属千寿院の寺地なりしが、松平周防守川越へ入城するに当て、寺も随伴して、此地に来れる也。 然れば寺の川越町に建てられたるは五十年を出てずと云ふベし。

妙昌寺

境町にあり。 日蓮宗也。 元多賀町にありしが、天和年中此処に移る。

観音寺

石原町にあり。 天台宗也。 寛永年中高沢町の水村氏檀越となり、中興せりと云ふ。

西雲寺

西町にあり、浄土宗、蓮馨寺末、元清水町に存せしが、天和年中西町に移れりと云ふ。

本行院

幕末の頃、通町に住せる某と云ふものが信仰して、小堂を設け、遂に今日の如き隆盛に至らしめたるなりと云ふ。 不動尊の名は既に遠近に嘖々として、信者頗る多し。