川角村

総説

現状

川角村は郡の西北部に位し、北は比企郡今宿村に境し、東北に入西村あり。東南に大家村あり、西に毛呂村越生町あり。川越町を去る四里。坂戸町を去る一里余也。坂戸今宿街道は村の北端を通貨すること僅に数町にして今宿に入り、坂戸越生街道は東北より、川越越生街道は東方より共に来て村内の西部に相会し、更に西して毛呂村に出づ。

越辺川は越生町より来り、毛呂村の境界を流れて、やがて村内の河流となり、東北に流れて、再び今宿村との境をなせり。高麗川は東南、大家村境の一部を流れたり。大谷木川は毛呂村境の一部を流れ、越辺川に入る。葛川は山根村葛貫に出て、村の西境に発する一流を合して東北に流れ、遂に入西村に入る。沼池多し。就中光山(ほーたん)沼は人烟を隔てたる山林中にあり。飛鳥集まり、鰻鰌の類多し。

地勢西北境は丘陵なれども、村内概して広濶なる平原地にして、林野連り、河流の流域には水田を見る。土質も西北部は粘土或は砂土にして、其他は大抵黒色若くは赤色の軽鬆土也。農業の外、養蚕、製茶等の業盛にして、絹、麦、米、茶等は主要なる産物也。人口二千七百十五、戸数四百二十七。川角西戸(さいど)、箕和田(みのわだ)、苦林(にがばやし)、大類(おおるい)、西大久保市場下川原の八大字より成る。

沿革

川角村の地方古墳甚だ多し。殊に大字川角の東部及其飛地玉林寺の如きは其類頗る多く、玉林寺には一望一二町歩の間、約二十七八個の古墳を存する処あり。古は殆ど一面の古墳なりしならん土人呼で塚原と云ふ。塚を崩して出てたる玉石は道路普請等に用ゐ、石棺の板石は橋梁敷石等に用ゆ。大類の人家は殆之を用ゐざるなし。石棺の中より出でたる刀剣管匂玉金環の類は往々にして付近の人家に所蔵せらる。鎌倉の頃大類に児玉党の一派大類行綱あり。

其族長く此地に住せしものならん。鎌倉街道は大家村森戸四日市場より来り、市場を過ぎて、少しく西北に向ひ、更に北して越辺川辺に出て、川を波て対岸今宿村小用に入りしが如し。今も其跡大字川角の東方に存し、広き処は尚道幅五間あり。古は六間幅なりしと伝ふ。雑草徒らに繁茂して、見るものをして慨然悲古の情に堪えざらしむるものあり。殊に元弘の頃新田義貞の南下し、建武の頃北条時行の南下し、正平の頃新田義宗が南下し又北走し、貞治の頃足利基氏が進軍したりしもの亦大体に於て此道程に一致せるを思へば、近傍の松籟も或は当年の喊声と聞えなん。其基氏が芳賀入道禅可と戦ひしは比企郡岩殿山とも称すれど、又苦林の原とも称し、玉林寺塚原の辺を以て古戦場なりとせり。

思ふに岩殿苦林相去る遠からず当年の戦局必ずしも其一に限らざる也。

小田原の頃に至て玉林寺は役帳に太田大膳亮勝(すぐろ)の内玉林寺分十九貫文とあり。或は古は勝呂郷と称へしにや。又紫藤新六入西郡大類十八貫七百六十三文卯検地、十六貫八百八十六文入西郡下河原奈倉加賀等も見えたり。西戸は元道祖土と記せしが如く、或は比企郡八ッ林村の道祖土氏などと関係ありし処ならん。箕和田法恩寺年譜録応永三十一年及三十三年の寄附状に「入西郡越生郷之内箕和田」又は「越生郷則次名箕輪田窪田」と見ゆ。

江戸時代には全村采地若くは支配地にして、市場の一部分のみ古河領なりき。明治元年知県事に、二年品川県に、次で韮山県に属し、四年入間県(五大区五小区、西戸箕和田は六小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年川角村連合となり、二十二年川角村を成す。

川角

川角は元川門とも記し、村の西部より中央部に及び、別に大類を隔てゝ、玉林寺と称する飛地を有せり。戸数一百十余。鎌倉街道の跡は其東部にあり。道に接して寺地の蹟あり。宿駅の存せし処あり。今や草生蟲嗚古の面影を見るべからず。小室氏、清水氏、岸氏、仲井氏を以て古しとなす。

八幡神社

宮前にあり。創立不詳なれど、社の西に館蹟あり。社は其氏神として設けられたるものならん。社殿見るべく、社後は越辺川の断崖也。崖に周囲二丈の老杉あり。

浄光寺

内手にあり。霊鷲山と号し、龍穏寺に属す。永禄三年永元入道創立にして、鉄心御洲の開山なりと云ふ。其以前或は小庵ありしものならん。墓地に二三の板碑あり。或は寺地が館蹟に接近せるより思ふに寺は館主の菩提寺たりしやも計られず。永元入道の如き蓋し館主の一人にや。或は曰く永元入道は小室氏の祖なりと。

南蔵寺

内手にあり。浄光寺の南に位す。法恩寺に属する一寺なりしも、今は小学校舎の一部に代用せらる。。

堀ノ内

八幡社の西より、浄光寺西方の地方に至るまて、土居の跡稍々連続せり。今は清水儀助氏の家を称して堀内と名け、其西北、竹林の地に於て土塁の跡最も明に存す。清水氏は元、村の東方吹上に住し、応永(?)の頃此地に移れりと云へば其以前何人の住せし処にや、年代遼遠到底究むるに由なし。

崇徳寺蹟

東方にあり。其東は鎌倉街道にして、今は雑木の林中九尺有余の大板碑を存す。「帰命本学心法身常住妙法心蓮台本来具足三身徳延慶第三暦仲春仲旬奉興立趣意者為大檀那沙弥並朝妻氏女」等の文字を刻したり。寺は元大伽藍なりしにや。然れども崇徳天皇に関係ありとの説は信すベからず。土人はソ-トク寺と呼べり。

玉林寺

川角の飛地にして今は玉林寺と称する寺院を見すと雖、地名の起因は恐らく寺名に出てしものならん。有名なる塚原は此地にあり。稲荷神社あり。小祠也。

苦林野古戦場

塚原付近にて貞治年中足利基氏が芳賀入道を討ちし処也。室町時代は此外諸将の陣せしとありしなるべし。

苦林

苦林は村の北端に位し、越辺川を隔てゝ、比企郡今宿村に対せり。古は此辺凡て苦林野の地方なりしならん。

鹿島神社

中央にあり。村社也。

専念寺

鹿島社に隣れり。法恩寺に属し頽廃せる堂宇を見る。

大類

大類苦林の南に位す。古大類氏の住せし処也。鎌倉街道は其西部を走り、玉林寺、川角等と接する処若干の古墳も存す。

十社明神社

明神台にあり。或は十首明神とも名け、里伝によれば金井新左衛門外九士の霊を祭れりと称し、基氏が苦林に戦へる時、僧秀賀なるもの之を祭れるなりと云ふ。明治四十年諏訪神社、神明神社、愛宕神社を合す。社地風趣あり。

大薬寺

神明台にあり。法恩寺に属す。寺堂焼失後の仮舎にして、見るに足らずと雖、恐らくは此辺古の大類氏の居址にあらざるか、付近に馬場、矢場(矢場イ方と呼ぶ)等の小名あり。土居の跡も近年まで存したりきと云ふ。

浄国寺

西久保にあり。浄土宗にして、川越蓮馨寺に属す。創立不詳なれど、 寺観甚だしく小ならず。薬師堂あり。板碑若干あり。

西大久保

西大久保大類の東南に位し、大家村欠ノ上と接せり。元大久保と称せしも、南畑村大久保と区別して、西大久保と呼ぶ。

八坂神社

中央にあり。村社也。明治四十年雷電神社等を合す。

智福寺

真言宗新義派にして石井大智寺末。

常楽寺蹟

北部の雑木林中にあり。土地幽遠、村人と雖往々此地に至らんとして道を誤るものあり。板碑の大なるもの二三基あり。其一に「弘安三年庚辰□月八日右志者為父母幽霊頓証大菩提沙弥願主敬白」と記し、他の一には「応長元年十月八日弟子比丘尼仏性沙弥願主三十三年」と記せり。外に尚小なるもの二三基あり。

館跡

浄楽寺蹟の南に近く、稍々土居の跡を存する処あり。近年まで尚諸処に土居を認めたりしも、最近に至て漸く其処を失へりと云ふ。曽て何人の住せしやを明にせずと雖、或は粟生田氏などの居りしにや。西大久保は概して萱方浅羽氏の配下にして、粟生田氏の如きも或は浅羽氏の一族なりしにや。

明眼寺蹟

南方にあり。今は小名となれるのみにて、他に寺蹟の徴なし。

三河林

越生街道の北に接し、仏坂に続けり。低き土居の跡を見る。三河国より大久保某の来り住せし処なりと云ふ。依て名けて三河林と称す。

市場

市場は村の東南部に位し、古の鎌倉街道に沿ひて、宿駅たりしが如く、古九日市場の名あり。即ち九の日を以て市を開きし也。旧名主山崎氏に就て尋ね頗る該街道の跡と、当時の盛観を詳にすることを得たり。

満願寺

舟原にあり。天台宗、川越中院末、舟原は元独立の一村なりしを百五六十年前市場に併せたりと云ふ。

鎌倉街道

鎌倉街道は今の川角西大久保境界に当れる、道幅五間の古道より東南に屈して、一たび低温なる水田地を通過し、現市場の中央を横断して東南南の方向を以て大家村四日市場森戸の間に出づ。沿道に本陣たりし家あり。大林坊の跡あり。又市場神社あり。思ふに此街道は両上杉氏鎌倉を去れる後も多少人馬往来の存せしも、徳川氏江戸に入るに及て、漸く廃頽に帰したるものならん。

市場神社

旧三島神社と称せしが、明治四十年大利神社、外五社を合して市場神社と名く。

矢先

矢先は金比羅山と称する処、狭長に入込める地方也。古矢稽古を行へる処なりと説話を試むるものあり。

市場新田

市場新田は衰へたり。

館蹟

山崎氏の付近に土居の跡ありき。

光山坊蹟

西方に位し、川角の南方に位す。土地高台也。一面の陸田たり。 其西方数町に光山沼あり。土人は光山をホーダンと呼べり。

下川原

下川原は村の南端にあり。

星宮神社

中央にあり。高麗川の北方に位する台地にして、村社也。社頭杉の並木あり。

延命寺

星宮の台下に位し、聖天院に属す。板碑若干あり。

西戸

西戸は村の西北部にして、南に越辺川を廻らし、北に小丘を控へたり。河畔の 水田肥沃にして、要害善し。此を以て古来山本坊此地に拠りて、大に勢力を振ひたりき。古墳多し。行任塚は浅見義一氏の手に帰し、小碑を立て其来由を明にせり。然も行任塚は行人塚にして、行任の二字に別個の意義を包含せしむるに足らざるが如し。

丸山

北方の丘陵にして、丘上土地稍々平也。或は曰く丸山は古城塞趾なりと。然も何人の居りしやを詳にせず。

新熊野神社

西北部にあり。山本坊が別当として奉護したりし所也。今は村社たり。

山本坊跡

熊野社の北方、丸山々下に当り、林泉の跡あり。礎石の跡あり。墓地もあり。 山本坊は箱根権現の別当に出て、本山派修験にして、寛永の頃より此地に移り、五十石の朱印を握て頗る隆々の勢ありし也。今は其南方一町余の処に住して民家となれり。古文書を蔵すると多し。毛呂村紫藤氏の説に山本坊此地に入れる以前、一乗坊なるもの存したりきと。浅見氏は山崎坊なるもの存したりきと云ふ。蓋し山本坊以前、恐らくは既に一寺の住したるならん。山本坊配下に龍光院、円蔵院等あり。付れも坊の付近に存在しき。

慶龍寺跡

川本坊より東方に当る。法恩寺末。今は一小堂と墓右を存するのみ。

箕和田

箕和田西戸の西に接し村の西北端にあり。古き村にして法恩寺年譜録にも見えたり。

稲荷神社

西方にあり。村社也。