山根村

総説

現状

山根村は郡の西北部に位し、北は越生町に、東北は毛呂村に、東は大家村に、南は高麗川村高麗村に、西は東吾野村梅園村に隣接す。川越町を去る五里、飯能町を去る二里、実に郡内の大村也。

地勢山岳縦横し、人家山間の渓谷に集まりて、権現堂宿谷大谷木葛貫阿諏訪及瀧の入の六部落と成せり。山の主なるもの権現堂に観音岳、鳥山あり。宿谷に巽山、秋葉山、八幡山、雷電山あり。大谷木に五六峠、大平山、愛宕山、大谷木山あり。瀧の入に鼻曲山、高福山、桂木山あり。川には毛呂川は瀧の入より出て、阿諏訪より来る阿諏訪川と合して毛呂村の境を流れ、大谷木川は大 谷木の西端鎌北より発し、殆ど村内を横貫して毛呂村に入り、宿谷川は権現堂より発して、宿谷を過ぎ、高麗川村に入る。葛貫の東部に発せる一細流は川角村に入りて葛川となる。

地勢斯の如きを以て、全村多くは森林にして田畑は渓谷に之を見る。唯毛呂村 に接する狭長の地及葛貫の付近は稍々低平にして耕地多し。飯能越生街道此処を 通ず。

土質も土地高低一様ならざるに件ひ甚だ錯誤し、山腹は赤色壌土にして、山麓の地には壌土あり。東南の平地には軽鬆土あり。

林業、養蚕、機織、農業行はれ、羽二重等の産著し、又密柑、王蜀黍、枇杷は 此の村の特産也。人口二千七町四十。戸数四百八。

沿革

山根村は北西南の一帯山を以て包まれ、其状恰も袋の如く、袋の入口に毛呂村あり、故に山根村の開発は大体に於て毛呂村と相待て行はれたりと見るべく、毛呂村にして鎌倉時代の始、既に十分に開墾せられたる処なりしとすれば、山根付地方の如きも、亦恐くは山間渓谷行人あり。居住者あり。少くとも半開墾以上の状態に進みしならん。

殊に瀧ノ入の地は地勢上よりするも、既に毛呂本郷と接近し、其渓谷は梅園村大満黒山地方へ出入する径路に当れり。此故に其地早く開けて、桂木山の頂上に近き観音堂の如きは行基菩藷の遺蹟とすら伝えらる、次に葛貫の如きも夙に開拓せられ、大平記に葛貫大膳亮とあるは、思ふに此の地の人なりしならん。宿谷に至ては児玉党の一人宿谷太郎行俊なるもの葛貫に住して、此の地を開発せること風土記にも見え、又口碑にも存せり、而して行俊の孫次郎左衛門重氏は源氏三代に仕へしと言へば、其古き事知るべきなり。

斯の如くにして鎌倉時代の始既に半開以上の状態に進めりと認めらるゝ山根村の地方は、南北朝を径て室町時代の間、概して毛呂氏宿谷氏の勢力範囲たりしなるべく、両上杉氏衰へて後北条の勢関東を圧するに及ては毛呂氏宿谷氏も固より其麾下に馳参せり。又北条役帳には左衛門佐殿(氏堯)知行の中に百四十六貫百三十六文河越三十三郷多婆目葛貫卯検地と見えたり。

江戸時代に至ては葛貫の外何れも一たび支配地となり、次で全村采地となる。葛貫は其後支配地となり、寛保二年以来飯能の黒田豊前守領となれり。大谷木阿諏訪権現堂宿谷瀧ノ入何れも維新の前は酒井備中守に知行せられたりき。明治元年葛貫は久留里領となり、二年久留里藩、四年久留里県と改め、其他は何れも元年武蔵知県事二年品川県、韮山県、を経て四年に至て全村入間県(五大区五小区)の下に統一せられ、六年熊谷県となり、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所に属し、十七年毛呂本郷連合に加はり、二十二年町村制の施行に際し瀧ノ入村と称し、二十五年に至て山根村と改めたり。

瀧ノ入

瀧ノ入は村の北部に位し、毛呂川に沿ふて稍々低地也。人家百二三十戸あり。

桂木山

桂木山は十五六町の登道にして山の西は即ち梅園村也。山上の眺望甚だ佳也。

観音堂

桂木山の頂上に近き処に観音堂あり。大同年間の建立と称せられ、元山頂にありしを、後世山腹に移せりと云ふ。法恩年年譜録には僧行基が山に名づけ、仏像を彫りしを記せり。要するに古堂なり。堂の入口に仁王門を設く、丹朱傍の長松と反影して亦一層の雅致を添へり。

桂木寺

観音堂の下に桂木寺あり。創立不詳、但天正の頃まで約二百年許の間は越生正法寺に属したりしが如く、寺宇廃るに及で、龍穏寺十四世良賀中興開山となり、従て龍穏寺末となる。時に慶長元年三月也。

住吉神社

住吉神社は瀧入の鎮守にして、古老の伝ふる所によれば、旧別当行蔵寺中興開山教由が永禄年間勧請せる所と称せらる。其後元和六年、寛永十八年、明暦元年、宝永三年造営し、亨保十七年修営せり。明治五年村社に列せらる。

行蔵寺

行蔵寺は愛宕山清林院地蔵坊と称し、越生法恩寺に属す。応永年代の創立にして、教祐之を中興す。即ち住吉神社旧別当也。

高福寺

高福寺は瀧之入の東端に位す。行阿山と称し、明応若くは文亀年間の創立なるが如く、開山作仁子長永正元年示寂せり。二世天文二年、三世弘治三年、四世天正十六年に寂し、五世大正良賀に至て龍穏寺末となる、良賀慶長十九年に寂す。其墓地に板碑二りあり、一は「応永九年八月十六日了愛書記」と記し、一は「元亨二二年」と記す。寺は山側に位し、東南面に毛呂本郷を望む。

備考

風土記には「此村に行庵(庵は阿の誤にや)寺高福寺とて二寺ありしが、慶長の頃僧良賀之を合して行庵山高福寺と号し後安楽山と改む行庵寺の跡此寺の後にあり」。と記したれども、土地の人全く之を知らざるが如し。風土記誤れるにや」。

大野氏に就て

瀧の入に大野を称するもの甚だ多し。然れども風土記に出でたる大野和藤次の家は今や徴禄せりと云ふ。風土記の伝ふる所によれば和藤次の祖北条大炊助照重、北条氏直に仕へ、大野を氏とす。其後八王子に住し、次で毛呂村岩井平山の地に住せしが、其地を村田和泉守に譲りて瀧入に移ると。其系図の如きは一々信ぜずして可也。

阿諏訪

阿諏訪は村の稍々中央を占めたり。阿諏訪川に沿へる狭長なる渓谷なり。戸数六七十。小学校は此地にあり。

龍谷山

龍谷(りゅうがい)山は阿諏訪の東北に位し、古要害山と称す。登道十町余。老松枝条を交へ、山容亦尋常にあらず。東方は水田及毛呂川に臨み、山上の眺望甚だ壮大也。伝へ言ふ。往古阿弥和巳之助披砦を此山上に築けりと。

今も馬場の跡と称するを存し、近年まで土居の旧趾も僅に残りたりしと請ふ。兵燹の遺物として発出する炭米今尚泯滅せず。然れども其事跡詳ならず。山上に雷電神社あり。

雷電神社

龍谷山上にありて、創立の年月を伝へず。寛保三年正月別当大行寺法師宥恵の撰し記録によれば、寛正六乙酉年八月吉日造営金幤一本社殿に安置す。其裏面に永禄四年酉年八月造営とあり。爾後当社を阿諏訪大行寺瀧入行蔵寺の別当にて隔年両村より祭典を執行して、明治五年に至る。此年村社に列せらる。明治四十年拝殿を造営し、村内無格社神明社及日枝社を合祀し、瘡守稲荷社を移し来て境内社とせり。

瘡守稲荷社

瘡守社は天正年間行和山に創立せられたるものにして、別当行福寺住僧の勧請せし所なりと云ふ明治四十年行和山より龍谷山に遷坐し参拝の人盆々多し。

寺跡

雷電社の旧別当大行寺は寛正六年の創立と称し、瘡守社の旧別当行福寺は創立不詳也。共に明治二年廃寺となり、今は其跡を存するのみ。

大谷木

大谷木阿諏訪の南に隣り、大谷木川に沿へる渓谷にして、戸数七十余。村役場あり。

山根神社

村の東端に稍々正円形に近き小丘あり。丘上に山根神社あり。誉田別尊を祭り、元八幡神社と称したりしが、明治四十年宿谷権現堂に存せし村社熊野、三島、白山、の三社及無格社十を合祀して山根神社と改む。境内高燥にして、社殿典雅也。

宝福寺

山根神社の西に宝福寺あり。丘の中腹に位し丘上に墓地を設く、板碑あり。永徳二年壬戌九月二十八日妙空禅門、応仁二年戌子逆修妙光禅尼と記せり。此応仁の板碑には梵字四列に相並びて恰も経文を刻せしに似たり。寺は越生法恩寺に属し沢谷山光助院と称す、今見るに足らず創立の時代も不詳也。

備考

風土記には宝福寺葛貫にありしとの説を掲げたり。葛貫の条参照。

観音堂及浄覚院跡

大谷木の南部宿谷に近き処を沢と名く。観音堂及浄覚院の跡あり。観音堂は大永の頃長福寺と称し、天文年中焼失して廃寺となりしを寛文の頃浄覚院之を再興せりと請ふ。浄覚院は本山派修験にして、川角村西戸山本坊の配下也。其家尚存し、堂牆の跡推究すべし。

大谷木氏

大谷木に大谷木を氏とするもの七戸あり。西方の三戸は一系を成し、毛呂氏の系なりと云ふ。其正系を詳にせずと雖、大谷木季利氏の家有力にして古しと云ふ。其居地を屋敷と称し、其東方に元屋敷と称する処あり。曽て邸第あり又寺堂ありしと云ふ。屋敷の西方に五輪塔三基あり。大谷木氏祖先の墓とも覚ゆれども、古風の二基は読むべからず。又元屋敷に近き神明宮及箱根神社の傍に「毛呂季光之碑」あり。何れも季利大谷木氏の所有也。

五輪塔

風土記によれば、村の西南松林中に五輪塔あり。大和入道法円帰迎禅門詰衆十六人、延文五年十一月二十日敬白と記されたりと云ふ。土人に就て問ふに此塔末だ存するものの如し。

宿谷

宿谷は村の南部に位せり。宿谷川あり。人家二十。山間幽谷也。

宿谷瀧

西南の渓間に瀧あり。高二丈半、上流は権現堂に出づ。瀧の付近樹木密生し、幽邃なる境致唯瞠塔の声を聞く。瀧の下流は即宿谷川にして、渓流水清く、石白し。瀧の傍に不動堂あり。修験妙覚院の所持なりき。妙覚院は笹井観音堂の配下なりし也。

宿谷氏に就て

宿谷村の開祖を宿谷氏と云ふ。宿谷氏武蔵七党児玉党に出て、鎌倉室町小田原に仕へて名を知らる。然れども今は徴録せりと云ふ。

権現堂

権現堂宿谷に接し、村の西南隅にあり。熊野神社ありしを以て権現堂の名生じたりと云ふ。社は今山根神社に合祀せり。人家三十に満たず。村に薬師堂あり、又石灰洞(?)あり。入ること七尺許にして起立すベく、其盡くる所を知難しと云ふ。

葛貫

葛貫は村の東南に位し、飯能越生街道に沿ひて人家あり。戸数八九十

住吉四所神社

村の稍々中央にあり。創立詳ならず。或は貞和年中足利尊氏、貞治年中足利基氏、明応年中足利氏満の造営と称す。蓋し古社なるベし。現今の社殿は元禄年中の造営なりと云ふ。明治五年村社に列せらる。境内幽邃也。神官宮崎氏。

薬王堂

住吉神社の西南に当り、長杉の立つ処一寺あり。薬王寺と云ふ。川越中院に属す。境内に五輪塔あり。文字漫滅して読むベからず。

宿谷氏居跡

住吉社の西、薬王寺の北、土居の跡を存する処あり。土地高く、水田を後にし、陸田を前にし、中央と覚しき処、長松あり。是れ宿谷氏の居跡にして、近傍に馬場の跡と称する処あり。宿谷氏は即ち宿谷村を開きし宿谷氏の本宗と称せられ、寺堂の如き大厦明治の初まで存せしも、今は荒廃人をして徒らに麦秀の嘆あらしむ。

大板碑

村の北方毛呂村の境に一大板碑あり長一丈余幅二尺五寸。嘉元四季二月三日時正敬白と記す。細字を刻したれど、読むベからず。風土記によれば、大谷木宝福寺は古此辺にありしならんと称せり。果して然るや否やを知らず。

大寺(おおでら)

葛貫の南方を称して大寺と云ふ。今も称せり。風土記によれば別に下大寺と称するもあり。土人の説によれば其辺礎石尚存するありと云ひ、或は近年に至て除去せりと云ふ。蓋し古、大伽藍の存せし処にや。(此辺に延文五年と記せる小板碑あり。又大寺の鐘堂は、高麗川村平沢に置かれしものならんと云ふものあり。