東吾野村
総説
現状
東吾野村は郡の西部に位し、飯能町を去ること二里、川越町を去る七里也。梅園村北にあり。山根村東北にあり。高麗村東にあり。飯能町、原市場村南にあり。秩父郡吾野村西にあり。
地勢南北に丘陵を控へ、吾野川其間を縫へり。狭長なる渓谷にして土質は砂粘質の壌土也。森林多く、丘上丘側殆ど是也。渓流亦少からず。長沢川、虎秀川は其稍々大なるもの也。畑は河畔の低地にあり。
秩父街道吾野川に沿ふて走り、飯能吾野間馬車の往復あり。木村、木炭、繭の産あり。人口二千四百六十、戸数三百七十七、長沢、虎秀、井上、白子、平戸の五大字より成る。
沿革
越生法恩寺年譜録には頻りに吾那(あかな)の名称を用ゐ、或は武蔵国吾那上下、と記し、或は武蔵国吾那入西郡越生郷と記し、或は武蔵国吾那越生之屋敷と記し、或は武蔵国吾那保と記したり。又吾那領、吾那村と記せるも見ゆ。又梅園村堂山最勝寺蔵文安三年の文書に吾那堀ノ内釈迦堂とありしと云ヘり。右の中吾那の名称が包含すべき範囲必ずしも一ならざるが如く、其何れの地、何れの地方に当るやも明ならずと雖、吾那上下は何となく東吾野及秩父郡吾野の両村なるやの感あり。秩父吾野上吾野と称し、東吾野元下吾野と云へり。而して「ナ」「ノ」邦音相次し易し。
東吾野の地方は何れの頃より開けしにや。思ふに飯能地方に至らんには必ず径路を東吾野の地に求めざるべからず。従て其開発稍々古きものあらん。鎌倉峠鎌倉橋の存在せるが如き蓋し此辺の消息を語るものと云ふべし。北条役帳に北条左衡門大夫五十貫文白子とあり又横手山口氏文書に
廿貫文 白子村深沢共
右者武州白子村大石隼人所務仕来之場所不残被宛行候御直印者追而可被遺之旨可彼相心得依而如件
天正七年巳卯三月三日
松田尾張守憲秀花押
山口郷左衛門殿
とありて、白子村を領せし大石隼人なるもの天正七年其他を山口氏に譲りしことを見たり。又役帳に鞨鼓船(かつこぶね)二十貫文松田左馬助とあるは平戸の小字に存する勝子船ならんと云ふ。
江戸時代に入りでは正保前後支配地たりしが、享保十七年黒田豊前守領となる。明治二年久留里藩となり、四年久留里県、次で入間県(四大区六小区、長沢は十小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄(高麗郡)、十七年虎秀連合、二十二年東吾野村と成し、二十九年入間郡となる。
白子は村の東南隅にあり。東西十八町、南北一里、人家六七十、吾野川に沿へり。西北部を深沢と云ふ。山口氏文書に白子村深沢共とあるは是也。
村社也。永禄七年の造営にて棟札に大石孫二郎殿百姓衆とあり、外に刀一振を社宝とせり。長三尺三寸無銘也。中山解勘由の家臣加治某八王子城落城の時、帯せし刀にして、小瀬戸村民長十郎の祖某が納めし所と云ふ。
清流山と号し、曹洞宗にして、飯能町中山能仁寺末、開山能仁寺四世、格外玄逸、慶長八年三月廿八日寂、これ恐らくは中興なるべし。寺領に就て大石源左衛門定久及北条氏邦の与へし文書二を蔵す。
長念寺々領之土貢無之候訖可納之於向後不可致難渋候門前之者共も寺家へ能能可走廻也
天文十二年七月朔日花押(定久の花押)
寺領之事如前々可被拘不可有横合旨被仰出者也依如件
丙寅正月十三日
白子の内 長念寺
と。丙寅は永禄九年ならんと云ふ
平戸は白子の西に接し、東西八町、南北一里、吾野川に沿ふて人家四十東西に連れり、川の南岸を勝子船(かつこぶね)と云ふ。役帳に所謂鞨鼓船の地也。
虎秀は村の略中央を占めたり。東西二十町、南北三十町、民戸吾野川畔の外、北方の渓間虎秀川に沿ひて散在し、或は丘の中腹、又は峰を隔てゝ居住せり。凡て六十、小学校あり。其付近を市場と云ふ。古此辺に市立ちし処也。近年其辺の畑より土器を出せりと云ふ。
虎秀及平戸の鎮守也。天正十九年朱印を附せらる。
陽秀山と号し、井上興徳寺末、建暦二年宝山の開山にして入寂は寛善三年なりと云ふ。今は無住也。
井上は村の西部に位し、十八町、南北十六町、人家約百、大概高麗川の沿岸に連れり。元一村なりしを一たぴ僅に四戸を以て下井上を設け、明治に至て再び合せり。
秩父郡吾野への径路也。峠の絶頂は郡界をなせり。伝へ言ふ鎌倉全盛の頃秩父の往来は皆此道によれりと。今は新道北に開けて平坦々たりと雖、然も土人多く此径路を好む。
鎌倉峠にあり。
吉祥寺と号し、臨済宗建長寺派也。開基は天用在大和尚にして年代元久元年正月に当れり。而して入寂は建保六年十一月廿五日なると山内墓碑に見ゆ。又板碑あり、応安六癸酉年二月遂修と彫れり。何人の墓碑たるやを詳にせずと雖、本尊阿弥陀の胎中金仏阿弥陀一体及古書一通を蔵するに由て、其古書に付て考ふるに、二基の古碑は覚翁普全の遂修したるものなるべきかと云ふものあり。本堂は嘉永前後二回の火災を経たれば、今は土蔵造りにして西洋窓を有する新式の寺舎たり。
長沢は村の西北隅にあり、秩父吾野の北に突出し、主として長沢川の渓谷に沿ひて人家散在し、井上以下四大字とは稍々懸隔せり。遠近山又山にして、村域東西一里十町、南北も亦之に近し。阿寺(あてら)、八徳(やつとく)、風影(ふかげ)など、分れて人家三四十つゝ在す、之を統計して、約百四五十にも近からんか。林業を主とせり。風土記に曰く、皆山稼をなして処女婦嫗に至るまで材木炭薪の類を取り出しこれを負担して業とせり。殊に鹿猪の多き処にて耕作の妨をなすと少からず」と。獣類は今は大に減せり。
梅園村へ至る坂路也。武蔵野話に曰く、案ずるに此処は秩父山の入口にて峠の始なり。終の峠を足ヶ窪峠と云ふ。其頭にある故冠峠(かふり)と云ふ。方言にてカプリと唱ふる故に本字を失へると見えたり」と果して然るや否や。蓋し誤れり。峠上眺望雄大也。
口碑に往昔日本武尊東征の際此地に借宿し給ひしかば、後尊を祭りて借宿神社とせりと。神体円鏡二、銘に借宿大明神願主道久武州高麗郡我野郷之内長沢村永正十二年乙亥二月吉辰とあり。又永正十二年の棟札に大旦那三田平朝臣政定とありきと云ふ。
阿寺にあり、大祭には笹楽を行ふ。又病気の者ある時は此社神木の辺の石を拾て持ち帰り速に恢癒に至るとの迷信あり。
阿寺にあり、安雲山と号し、臨済宗興徳寺末也。弘長年中草創にて、開山月峯示寂年月不明也。