面振峠(かあぶりとうげ)
梅園村へ至る坂路也。武蔵野話に曰く、案ずるに此処は秩父山の入口にて峠の始なり。終の峠を足ヶ窪峠と云ふ。其頭にある故冠峠(かふり)と云ふ。方言にてカプリと唱ふる故に本字を失へると見えたり」と果して然るや否や。蓋し誤れり。峠上眺望雄大也。
長沢は村の西北隅にあり、秩父吾野の北に突出し、主として長沢川の渓谷に沿ひて人家散在し、井上以下四大字とは稍々懸隔せり。遠近山又山にして、村域東西一里十町、南北も亦之に近し。阿寺(あてら)、八徳(やつとく)、風影(ふかげ)など、分れて人家三四十つゝ在す、之を統計して、約百四五十にも近からんか。林業を主とせり。風土記に曰く、皆山稼をなして処女婦嫗に至るまで材木炭薪の類を取り出しこれを負担して業とせり。殊に鹿猪の多き処にて耕作の妨をなすと少からず」と。獣類は今は大に減せり。
梅園村へ至る坂路也。武蔵野話に曰く、案ずるに此処は秩父山の入口にて峠の始なり。終の峠を足ヶ窪峠と云ふ。其頭にある故冠峠(かふり)と云ふ。方言にてカプリと唱ふる故に本字を失へると見えたり」と果して然るや否や。蓋し誤れり。峠上眺望雄大也。
口碑に往昔日本武尊東征の際此地に借宿し給ひしかば、後尊を祭りて借宿神社とせりと。神体円鏡二、銘に借宿大明神願主道久武州高麗郡我野郷之内長沢村永正十二年乙亥二月吉辰とあり。又永正十二年の棟札に大旦那三田平朝臣政定とありきと云ふ。
阿寺にあり、大祭には笹楽を行ふ。又病気の者ある時は此社神木の辺の石を拾て持ち帰り速に恢癒に至るとの迷信あり。
阿寺にあり、安雲山と号し、臨済宗興徳寺末也。弘長年中草創にて、開山月峯示寂年月不明也。