鎌倉峠及鎌倉橋
秩父郡吾野への径路也。峠の絶頂は郡界をなせり。伝へ言ふ鎌倉全盛の頃秩父の往来は皆此道によれりと。今は新道北に開けて平坦々たりと雖、然も土人多く此径路を好む。
井上は村の西部に位し、十八町、南北十六町、人家約百、大概高麗川の沿岸に連れり。元一村なりしを一たぴ僅に四戸を以て下井上を設け、明治に至て再び合せり。
秩父郡吾野への径路也。峠の絶頂は郡界をなせり。伝へ言ふ鎌倉全盛の頃秩父の往来は皆此道によれりと。今は新道北に開けて平坦々たりと雖、然も土人多く此径路を好む。
鎌倉峠にあり。
吉祥寺と号し、臨済宗建長寺派也。開基は天用在大和尚にして年代元久元年正月に当れり。而して入寂は建保六年十一月廿五日なると山内墓碑に見ゆ。又板碑あり、応安六癸酉年二月遂修と彫れり。何人の墓碑たるやを詳にせずと雖、本尊阿弥陀の胎中金仏阿弥陀一体及古書一通を蔵するに由て、其古書に付て考ふるに、二基の古碑は覚翁普全の遂修したるものなるべきかと云ふものあり。本堂は嘉永前後二回の火災を経たれば、今は土蔵造りにして西洋窓を有する新式の寺舎たり。