天神社
大塚に属すれども大塚新田の人家と並びたり。 創立不詳、境内に梅樹数十株、内記頗る老幹あり。 社の神木は一小古墳に立てりと覚しく、其半枯死したる、樹梢は遠望の人をして、直に大塚の地なるを知らしむ。
南大塚、大塚新田共に村の東南部に位す。 大塚戸数約一百、新田二三十。
大塚に属すれども大塚新田の人家と並びたり。 創立不詳、境内に梅樹数十株、内記頗る老幹あり。 社の神木は一小古墳に立てりと覚しく、其半枯死したる、樹梢は遠望の人をして、直に大塚の地なるを知らしむ。
大塚にあり。 天神社の北に並べり。 木宮山地蔵院と号す。 川越喜多院に属せり。 法印詮海(寛永三年頃住)を十五世とし、法印証恵を十三世としたり。 其古寺なりしを知るべし。 然れども記録等全く欠けたり。 三芳村上富の地蔵堂は古来、此寺と亀久保地蔵院とにて所持し、明治の始訴訟ありしも、依然として、二寺其権を享有せり。
社地は大塚新田なるべし。 二十年前までは名も知られざる一小稲荷祠なりしに、 其後漸く流行して、 頗る参拝の者を多くせり。 社地古塚と覚しく、其後方にも亦一塚あり。
稲荷社を出でゝ、入間川街道に出んとする処、叢林あり。 之を山王森と云ふ。 曽て日枝神社あり。 其社跡は大なる古墳にして。 或は瓢形若くは鏡形をなせしと覚しく、大塚の名恐らく此辺に胚胎したるものならん。 或は曰く古は此外に大古墳ありきと。 此処より南方、入間川街道の両側に大小幾多の古墳あり。 或は既に其半を崩したるもあり。 其或ものよりは刀等を出したりと云ひ、其或ものよりは何物をも出さゞりきと云ふ。 思ふに古既に窃取したるものならん。