上老袋

徳川氏以前は上老袋の別なく、三村を合して単に老袋と称し、老袋或は本宿鹿飼等の地をも含みしものなるが如し。 然れども詳ならず。 老袋の地は岩槻城主太田氏に属す。 道祖土系図によれば豊前守康兼の二男道祖土図書助満兼小田原北条に事へ、後氏直の弟十郎氏房岩槻の源五郎氏資が遺蹟を継ぎし時、氏房の領する所となり、老袋村にて五十貫の地を領すると見えたり。 徳川氏以後は総説に於て述べたる所の如し。

上老袋は村の北部に当り、戸数約四十。

地蔵堂

舟塚

村役場及小学校敷地の西北隅に其遺蹟を残す。 之を舟塚と名くる所以は往昔洪水ありし時、村民舟を此塚に繋ぎ、飢餓を免れしによると云ふ。 或は曰く塚は元亀中道祖土某が宝物を埋蔵せし所にして、亨保の頃名主次兵衛之を発掘せしに、石棺を発見し、蓋をとれば太刀等あり、即ち神と崇めたれど、次兵衛病で死し、其女十二歳にして尼となり円乗坊を立て、父を以て開基となすと。 明治二十年小学校建設に際し、村民舟塚の大部を崩し、地を平にして、敷地を作りしが、当年の石棺再びあらはれ、長二間、巾九尺にして二室に分れ、一室には太刀、甲胄、金環等を存し、室には貴女の冠等を遺したりきと云ふ。 依て塚の一部を存して石棺を之に埋め、祠を立て、舟塚神社と称せり。 舟塚は勿諭古墳に外ならず。

小墳

舟塚の付近小墳稍多かりしものゝ如く、今も尚二三を見る。 古は尚多数なりしなるべし。 風土記に「スクモ塚、芥捨たる場所なるべし」とあるも蓋し恐くは小墳の一なるべきか。