南畑城蹟

山場の東、馬場の南に当り、小名を城家(しろが)と云ふ。 志木街道より入ると一町許の処にあり。 修験十玉院の跡、今荒寥慘憺たり。 其城は何時の頃築きしやを知らずと雖、天文の頃上杉氏に仕へし難波田弾正憲重が居城なりしとは確実なるが如し。 憲重は後松山城々代となりしが、天文十五年河越夜軍に於て父子三人燈明寺口に戦死せり。 それより此辺凡て北条氏の分国として、上田周防守在城せしかど、天正十八年以来廃城となれり。 城趾の模様今訪ねるに由なきも、四方二町余、追手は南の方、宿畑と云へる辺にありしとかや。 昔は外廓あり、二重堀を有せしと云ふ。 又西の方一町許の処に幕末の頃まで、五輪の石碑及建武、永享、文安の年号を刻せる断碑三基を存せしとかや。 五輸は難波田氏の墓碑なりしか。