阿蘇明神社
字山形の氏神にして、村社也。 木立の間に小祠立てり。 風土記に曰く。 「当社勧請の年歴は伝へざれど、社内に古き棟札二枚を蔵む。 其一は最古色にて、阿蘇の二字のみ僅に見ゆ。 一は永正元甲子年七月別当万蔵院造営せし由載せたれば古社なると論なし」と。
下南畑は上南畑の東南に接し、東西十一町余、南北二十余町、戸数二百余、鎌倉時代の古道と覚しきものは、水谷村水子より入て、宗岡村羽根倉の渡に出づ。
字山形の氏神にして、村社也。 木立の間に小祠立てり。 風土記に曰く。 「当社勧請の年歴は伝へざれど、社内に古き棟札二枚を蔵む。 其一は最古色にて、阿蘇の二字のみ僅に見ゆ。 一は永正元甲子年七月別当万蔵院造営せし由載せたれば古社なると論なし」と。
字八幡脇にあり。 村社也。 鎮坐の年歴は難波田弾正居住の時鎮守とせし由を云ひ伝ふれど、天文り頃既に鎮坐ありしにや。 古風なる社殿也。
興禅寺の南に当り、堤上にあり。 村社也。 風土記によれば「神体は石剣の類にて、青石を以て作れり」と云ふ。 長一尺、幅広き所三寸五分ありと。
下南畑は未だ合祀の事行はれず。 故を以て小社甚だ多し。 稲荷(鶴新田)美福稲荷(山形)乗越稲荷(乗越)稲荷(町田)妙見(鶴新田)稲荷(葮曾)天神(木曾田)須賀(竹田(稲荷三(同)金錯稲荷(山形)天神(蓮田)八坂(木曾田)須賀(登戸)山神(血沼)等是也。
山形にあり。 村の西北にして、上南畑の金蔵院と相近し。 本堂大にして、古色深し。 門上長松天に磨し、門下明和六年鋳造の鐘を掲ぐ。 銘中謂へるあり。 曰く開山は隣峯蓮光寺(南古谷村渋井にあり)初□之遠孫而昔日善知識也云々と。 古は光禅寺と書し、曹洞宗、蓮光寺末、川龍山と号し、開山明庵、寛永二年末寂せり。
興禅寺の東南に当り、墓地あり。 堂あり。 凡て廃頽したれども、尚留守する老婆あり。 堂の東は直ちに阿蘇明神社也。 寺は興禅寺末、無量山と云ひ、開山然室、天和二年示寂也。
山場の東、馬場の南に当り、小名を城家(しろが)と云ふ。 志木街道より入ると一町許の処にあり。 修験十玉院の跡、今荒寥慘憺たり。 其城は何時の頃築きしやを知らずと雖、天文の頃上杉氏に仕へし難波田弾正憲重が居城なりしとは確実なるが如し。 憲重は後松山城々代となりしが、天文十五年河越夜軍に於て父子三人燈明寺口に戦死せり。 それより此辺凡て北条氏の分国として、上田周防守在城せしかど、天正十八年以来廃城となれり。 城趾の模様今訪ねるに由なきも、四方二町余、追手は南の方、宿畑と云へる辺にありしとかや。 昔は外廓あり、二重堀を有せしと云ふ。 又西の方一町許の処に幕末の頃まで、五輪の石碑及建武、永享、文安の年号を刻せる断碑三基を存せしとかや。 五輸は難波田氏の墓碑なりしか。
城趾の本丸と覚しき所にあり。 今は住者なく、竹林繁り、薬草処を得て、夏時隔離病舎に代用せらると云ふ。 然るに此院、聖護院直末の修験にて、日本二十八先達の内武蔵国九ヶ寺の一也。 南城山八幡寺と号す。 起立の年代は詳ならざれど、古き修験にて、彼の廻国雑記に、笹井を立て武州大塚の十玉がもとにまかりけるに云々とあるは、恐く此寺大塚に存せしものと推定せらる。 其後十玉院は天正の頃、水谷村水子に居住し、次第に衰微せしを、同七年多摩郡清戸村の内芝山と云ふ処に移して再興したりしこと、北条氏照の文書に見えたり。 それより此処に移りし年代は詳ならざれど、十玉は難波田弾正の親族なりしを以て、廃城となれる後、願ふて芝山の地に替えたりと云ふ。 従て此寺、宝物多く、太刀、鞍、轡等憲重の遺物を初め、短刀三振、仏図一軸、文明、天正、文禄等の古文書数通を有し、惣門、中門、不動堂、経堂等厳として存し、天神祠の如きは三四の末社を従へて、此一隅にありし也、古今変遷の跡も亦急なる哉。 其他万蔵院、西蔵院の如きは今は唯小名として地名に残れるのみ。 然れども万蔵院は十玉院末にして、西廓山と号し、開祖は古尾谷筑後守の苗裔なりしと伝へられき。 筑後守は古尾谷近江太郎信秀法名古谷院安養無寂と云ひ、応永六年に卒せり。 又西蔵院も十玉院末にして東廓山と号し、開祖は中筑後守資信の嫡孫如直にして、資信没落の後其子蔵人資親、当院に世を遁れ、入道して行阿と被せしが、中氏の祭祀絶えたるを悲み、一子如道を修験とせりと云ふ。 資信は天正十年に卒したり。 但武蔵野話は資信を以て応永六年に死せりとし、寺内に正長、永仁文安等の諸板碑存せしとを記せり。