城趾の本丸と覚しき所にあり。 今は住者なく、竹林繁り、薬草処を得て、夏時隔離病舎に代用せらると云ふ。 然るに此院、聖護院直末の修験にて、日本二十八先達の内武蔵国九ヶ寺の一也。 南城山八幡寺と号す。 起立の年代は詳ならざれど、古き修験にて、彼の廻国雑記に、笹井を立て武州大塚の十玉がもとにまかりけるに云々とあるは、恐く此寺大塚に存せしものと推定せらる。 其後十玉院は天正の頃、水谷村水子に居住し、次第に衰微せしを、同七年多摩郡清戸村の内芝山と云ふ処に移して再興したりしこと、北条氏照の文書に見えたり。 それより此処に移りし年代は詳ならざれど、十玉は難波田弾正の親族なりしを以て、廃城となれる後、願ふて芝山の地に替えたりと云ふ。 従て此寺、宝物多く、太刀、鞍、轡等憲重の遺物を初め、短刀三振、仏図一軸、文明、天正、文禄等の古文書数通を有し、惣門、中門、不動堂、経堂等厳として存し、天神祠の如きは三四の末社を従へて、此一隅にありし也、古今変遷の跡も亦急なる哉。 其他万蔵院、西蔵院の如きは今は唯小名として地名に残れるのみ。 然れども万蔵院は十玉院末にして、西廓山と号し、開祖は古尾谷筑後守の苗裔なりしと伝へられき。 筑後守は古尾谷近江太郎信秀法名古谷院安養無寂と云ひ、応永六年に卒せり。 又西蔵院も十玉院末にして東廓山と号し、開祖は中筑後守資信の嫡孫如直にして、資信没落の後其子蔵人資親、当院に世を遁れ、入道して行阿と被せしが、中氏の祭祀絶えたるを悲み、一子如道を修験とせりと云ふ。 資信は天正十年に卒したり。 但武蔵野話は資信を以て応永六年に死せりとし、寺内に正長、永仁文安等の諸板碑存せしとを記せり。