鶴馬
鶴馬は村の大部を占め、貝塚あり、石塚あり、延慶、元徳、嘉吉、文明、安徳等の板碑も出て、其史上に存せる根跡頗る古さを示せり。
寛文の頃の刻石に入東高麗郡鶴馬など記せるありて、元禄以後入間郡と見えなり。
元禄十二年検地の時戸数二百二、明和五年検地の時二百八十戸あり。
今は三百と遙に出でたり。
慶安四年上下二組に分ち、元禄十二年上中下三組とし、明治八年に及て復一村となる。
古は鶴間と記せしが、正保三年鶴馬と改む。
小名貝塚と称する処にあり。
低温なる水田地へ突出したる高台にして、雑木繁茂せり。
貝殻は露出せず。
元其一部に稲荷の小祠あり、貝塚稲荷と称せしが、合祀の際之を去る。
明治四十年五月帝国大学より川上文学士、石田理学士、野中委員外学生等来て、此辺を開穿し、士器等を発見せりと云ふ。
又其時近傍の石塚を発掘して石瓶、矢根石等を得たりと云ふ。
貝塚の東に「津」と称する処あり、土人は「ズ」と発音す、往古入江なりしと口碑に伝へられ(今も湿地及び沼地多し)此辺を称して渡戸と云ふ。
又御舟山と称するあり。
榛名明神、貝塚稲荷と舟に乗て此地に来りし説話あり。
貝塚の南、山室の地は原始人民の土室ありし処と称せらる。
折戸にあり。
正徳元年再建の棟札あり。
明治四十年貝塚稲荷。
渡戸雷電社等を合祀せり。
折戸にあり。
元禄五年の創立にして、悪疫防護の神なればとて敬神講の組織あり。
御庵にあり。
来歴不詳。
厳島社
(竹際)
稲荷
(山室)
同上
(宿)
同上(竹際)
天明七年の創立と云ふ。
同上
(谷津貝戸)
神明、厳島社
折戸にあり。
天台宗古谷村灌頂院末。
宝瀧山延命院と号す。
創立年月不詳。
或は開山宝円安元二年示寂と称す。
十四世宝全法印寛永廿一年示寂、今住二十七世也。
火難に罹ると二三回と云ふ。
御庵にあり。
天台宗灌頂院末、宝暦六年十一月本堂再建の棟礼あり。
西雲山光明院と号す。
宿にあり。
浄土宗、川越蓮馨寺末、大眼山と号す。
天正十九年地頭多門平左衛門の創立にして単信なるものを第一世とす。
谷津貝戸にあり、開基は権大僧都法印秀逸にして、延宝二年寂す。
旧修験改めて灌頂院末となる。
慈眼寺(折戸)曹洞宗蓮光寺末、薬師堂(上沢) 観音堂(薬師前) 地蔵堂(山室) 来見堂(羽沢前) 薬師堂(御庵)
村内に応安四年八月日と刻せる板碑に、阿弥陀供養日待と記せるものありと云ふ。
風土記によれば秣場四ヶ所郡合三丁九段三畝余あり。
水子、
鶴馬、
苗間、
勝瀬、
駒林、
福岡、
川崎、
亀久保八ヶ村出入の地にして、貞享元年訴訟事件あり。
関係文書、今も存す。
村の東南、水谷村に近し。
地頭宮崎氏の屋敷跡なりとかや。