水谷村

総説

現状

水谷村は郡の東南隅に位し、川越町を去る四里、大井村を去る一里半交通不便にして郡内小村の一也。 北は鶴瀬村、東は南畑宗岡二村西は三芳村、南は北足立郡志木町に接続す。

柳瀬川南境を流れ、新河岸川東境にあり。 両河の畔は土地低く水出多けれども、村の大半は高台にして麦畝也。 近来は養蚕の業漸く盛にして、米、麦、豆等の外、生糸織物の産あり。 戸数三百三十五、人口二千百十八、水子針ヶ谷の両大字に分る。 水子は大にして、針ヶ谷は小也。

水田には柳瀬川及村内諸処の清泉より水を引きて灌漑に資せり。

沿革

水谷村には曽て古墳頗る多かりしものゝ如きも、今は殆ど其跡を知らず。 古書に始めて見えしは小田原役帳、上田友近、二十貫文入東水子と出でたるを以て主とすべきに似たり。 江戸時代には、元禄以前釆地又は支配地にして、以後川越領也。 針ヶ谷は元禄以前曽て新坐郡館村に属したりき。

明治二年川越藩となり、四年川越県となり、次で入間県(二大区四小区)となり、六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所々轄、十七年水子宗岡と連合し、針ヶ谷藤久保連合に加入せり、二十二年合して水谷村と称す。

水子

水子は村の中央及東部を占め、東西二十町、南北十五六町にも達せるが如し。 戸数二百数十。 上中下の三組に分れ、更に山崎、本郷、北側、松山、永久保、久保新田、京塚、神明、城下(じゃうした)、岡ノ坂、石井、並木、別所、正網(しゃうあみ)、栗谷等許多の小名を設けたり。 鎌倉時代の古道は針ヶ谷より来て下南畑に入る。 彼の高麗経澄軍忠状に所謂、正平十年十二月十八日鬼窪を立ちて府中に向ひ、十九日羽禰蔵(はねくら)にて難波田九郎三郎を破り、同夜阿須垣原に陣せし道程は或は此の道に当らざるか。

古城蹟?

城下にあり。 境界も定かならず。 村人の記憶にも存せず。 然れども館趾若くは小砦などの存せし所なるべし。

古塚に就て

又新風土記には塚十ヶ所として、其名を列記し、又大応寺百八塚の事をも掲げたれど、今其殆ど全部を消失す。 唯松山に一塚あり、塚上に地蔵立つ。

氷川神社

台にあり、村社にして、近頃諏訪、神明、八坂等の請社を合祀し、拝殿の建築中也。 社の北に八幡社あり。 東北に正蓮寺あり、南に山王坂あり。

八幡神社

台の八幡と称するものにして、氷川社の北にあり。 社殿見るに足る。 社の崖下厳島の小祠あり、清泉湧出せり。 其傍は即正蓮寺也。

天満宮

北側にあり。 小祠にして、老杉あり。 宮の西北と覚しき処又一祠あり。 恐らくは上組の氷川神社なるべし。

其他小祠頗る多く、稲荷社の如き十五を数えしと云ふ。 然れども多くは合祀せられ、其存するものゝ如きも特に云ふに足るものなし。

大応寺

北側にあり、古風の楼門あり、傍に大樅樹ありて天に冲せり、本堂も亦相応せり。 然れども楼門の方遙かに古色あり、楼上寛延四年の鐘をかく、此寺真言宗、報恩院末にして、水光山不動院と称す。 草創の年暦は詳ならざれど、過去帳中、法印賢憲天文十七年示寂と云ふもの見えたれば、天文以前の古寺なるを知る、中興開山宥勝、。 貞享二年寂す、風土記には大応寺塚の事を記せども、今は其跡だになし。

不動寺跡

大応寺の北方にあり、峯応山胎蔵院と称す、修験より真言に移り、大応寺門徒となれり、然れども今は僅かに廃堂に農夫の守るあるのみ。

福性寺跡

台の氷川社の北にあり、寺院のありし伝説残れども、六十歳の人、遂に寺観を知らず、大応寺門徒にして、如意山と号せりと云ふ。

宝性寺

京塚にあり、村役場の東に当れり、天応寺門徒、医王山と号す。 今は僅に小堂に老僧の留守を務むるのみ。

正蓮寺

八幡社の下にあり、門なく、堂あり、庭樹繁れり、堂の正面額あり、寂光殿と記せり、傍に三十番神堂あり、日蓮宗安房国誕生寺末にして、智永山智性院と云ひ、開山日性永正二年寂せり、此寺八幡社に近き処に墓地あり、小五輪塔の一墓石あり、文字見るべからずと雖、恐らくは風土記に云ふ所の如く「上田周防守墓、五輪の石塔にて正面に上田周防守輕国と刻し、傍に天正五年四月十六日日道とあり、周防守は北条氏の旗下にして、下南畑村に居城せし人ならん、武蔵野話が日道に就て説く所は従ふべからず。

薬王寺

正蓮寺の東南、高台上にあり、相去る事、四五十間のみ風景よし、小堂及墓地あり、堂は南面し、崖に石階を設けて昇降す。

其他此村尚寺院の跡と覚しきもの多し、真光寺跡は寮となり、地蔵院も亦然り、其他一二あるらし。

針ヶ谷

針ヶ谷は村の西南にして、曽て新坐郡舘村の地に属せし事ありしかど、柳瀬川より北を裂て別村とし、入間郡に編入せり。 其年代詳ならざれども、正保の改には此村名を載せず、元禄の改に至て、始て見えたれば舘村より割て此村の成立せしは、正保、元禄の間にあらん。 東西南北数町のみ。 小村也。 戸数五六十。

氷川神社

西光寺の西に位す。 村社也。

西光院

今無住同様にて、昔の面影なけれども、真言宗、大和田町普光明寺末にして、瑠璃光山観音寺と号せり。 正和二年の草創にして、開山長教は文保二年に寂せりと云ふ。 西光院より西南、断崖に沿ふて進めば、墓石数基存する処あり。 是れ阿弥陀堂の跡か。 更に進めば雑木の林中、一小古塚あり。 墳に立て南を眺むれば、柳瀬川流域の水田眼下に展開し、北足立、多摩両郡の地方をも望むを得。 松の疎林、軽風来て、籟声たえず。