古城蹟?
城下にあり。 境界も定かならず。 村人の記憶にも存せず。 然れども館趾若くは小砦などの存せし所なるべし。
水子は村の中央及東部を占め、東西二十町、南北十五六町にも達せるが如し。 戸数二百数十。 上中下の三組に分れ、更に山崎、本郷、北側、松山、永久保、久保新田、京塚、神明、城下(じゃうした)、岡ノ坂、石井、並木、別所、正網(しゃうあみ)、栗谷等許多の小名を設けたり。 鎌倉時代の古道は針ヶ谷より来て下南畑に入る。 彼の高麗経澄軍忠状に所謂、正平十年十二月十八日鬼窪を立ちて府中に向ひ、十九日羽禰蔵(はねくら)にて難波田九郎三郎を破り、同夜阿須垣原に陣せし道程は或は此の道に当らざるか。
城下にあり。 境界も定かならず。 村人の記憶にも存せず。 然れども館趾若くは小砦などの存せし所なるべし。
又新風土記には塚十ヶ所として、其名を列記し、又大応寺百八塚の事をも掲げたれど、今其殆ど全部を消失す。 唯松山に一塚あり、塚上に地蔵立つ。
台にあり、村社にして、近頃諏訪、神明、八坂等の請社を合祀し、拝殿の建築中也。 社の北に八幡社あり。 東北に正蓮寺あり、南に山王坂あり。
台の八幡と称するものにして、氷川社の北にあり。 社殿見るに足る。 社の崖下厳島の小祠あり、清泉湧出せり。 其傍は即正蓮寺也。
北側にあり。 小祠にして、老杉あり。 宮の西北と覚しき処又一祠あり。 恐らくは上組の氷川神社なるべし。
其他小祠頗る多く、稲荷社の如き十五を数えしと云ふ。 然れども多くは合祀せられ、其存するものゝ如きも特に云ふに足るものなし。
北側にあり、古風の楼門あり、傍に大樅樹ありて天に冲せり、本堂も亦相応せり。 然れども楼門の方遙かに古色あり、楼上寛延四年の鐘をかく、此寺真言宗、報恩院末にして、水光山不動院と称す。 草創の年暦は詳ならざれど、過去帳中、法印賢憲天文十七年示寂と云ふもの見えたれば、天文以前の古寺なるを知る、中興開山宥勝、。 貞享二年寂す、風土記には大応寺塚の事を記せども、今は其跡だになし。
大応寺の北方にあり、峯応山胎蔵院と称す、修験より真言に移り、大応寺門徒となれり、然れども今は僅かに廃堂に農夫の守るあるのみ。
台の氷川社の北にあり、寺院のありし伝説残れども、六十歳の人、遂に寺観を知らず、大応寺門徒にして、如意山と号せりと云ふ。
京塚にあり、村役場の東に当れり、天応寺門徒、医王山と号す。 今は僅に小堂に老僧の留守を務むるのみ。
八幡社の下にあり、門なく、堂あり、庭樹繁れり、堂の正面額あり、寂光殿と記せり、傍に三十番神堂あり、日蓮宗安房国誕生寺末にして、智永山智性院と云ひ、開山日性永正二年寂せり、此寺八幡社に近き処に墓地あり、小五輪塔の一墓石あり、文字見るべからずと雖、恐らくは風土記に云ふ所の如く「上田周防守墓、五輪の石塔にて正面に上田周防守輕国と刻し、傍に天正五年四月十六日日道とあり、周防守は北条氏の旗下にして、下南畑村に居城せし人ならん、武蔵野話が日道に就て説く所は従ふべからず。
正蓮寺の東南、高台上にあり、相去る事、四五十間のみ風景よし、小堂及墓地あり、堂は南面し、崖に石階を設けて昇降す。
其他此村尚寺院の跡と覚しきもの多し、真光寺跡は寮となり、地蔵院も亦然り、其他一二あるらし。