諏訪右馬亮城蹟
村の北方にありしと覚しく、或は新河岸の地域にも及びしか。 然れども今其跡を徴するに由なし。 或は砂村氷川神社の南方にも城塁の跡ありと云へど確実ならず。 風土記には寺尾より上下新河岸に跨りて、本丸二丸三丸と覚しか処あり。 又砂村の境に土居あり之を要害と呼ぶと記せり。 更に其記す所によれば、寺尾に小字猫山あり。 或は猫山は根古屋の転訛なるやも計られず。 (野話にも砦跡の事見ゆ。)
寺尾は村の東南部にあり。 人家八九十、此地古諏訪右馬亮居城せしと云ふ。 北条役帳には二百貫文寺尾、諏訪三河守と記し、又小田原記に武州寺尾の住人諏訪右馬助とあり。 (然れども武蔵国中四ヶ所に寺尾村ありて其何れも諏訪氏の居城と称す)
村の北方にありしと覚しく、或は新河岸の地域にも及びしか。 然れども今其跡を徴するに由なし。 或は砂村氷川神社の南方にも城塁の跡ありと云へど確実ならず。 風土記には寺尾より上下新河岸に跨りて、本丸二丸三丸と覚しか処あり。 又砂村の境に土居あり之を要害と呼ぶと記せり。 更に其記す所によれば、寺尾に小字猫山あり。 或は猫山は根古屋の転訛なるやも計られず。 (野話にも砦跡の事見ゆ。)
村の鎮守也。 末社に天神社外二三あり。
川越中院の末寺にして、寺尾山蓮華院と号す。 天台宗にて天長年間慈覚大師の開基なりと称す。 其後一時衰徴の状に陥りしを、建武元年秀海法印大に寺運の恢復につとめたりと。 今は砂の勝光寺住僧の兼務也。