入間村は入間川町の東南、
豊岡町の東に接続し、
東北は堀兼村、
東南は豊岡村、
南は三ヶ島村、
西南は藤沢村に境せり。
新河岸二本木街道、
豊岡入曽街道、
村内を通ず。
土地概して高燥、土質は軽鬆也。
若干の高低あり。
不老川は藤沢村より来り、
同じく藤沢村より来る遁水(ニゲミズ)川を併せて、
東北堀兼村に入る。
陸田及雑木林多し。
農の外、機織製茶の業大に行はれ、織物茶の産多し。
北入曽、
南入曽、
水野の三大字に分れ、
戸数四百五十、人口二千六百三十四。
入曽の地は天正の頃、既に能く開けたるものゝ如く、同十九年の水帳に北入曽と記せるを以てすれば、勿論此以前より南北二村に分れしを知るベし。
水野に至ては其開発他の武蔵野地方と同じく、検地は寛文二年(風土記に元禄五年と云へるは第二次の検地にや)に於て行はれたり。
南北入曽は大抵支配地若くは采地たり。
(北入曽は田安家の領たりしとありき)故に明治元年知県事に隷し、二年品川県、韮山県となり、水野は川越領たり。
故に明治二年川越藩、四年川越県となり、
同年南北入曽を併せて全村入間県(三大区五小区、
水野は六小区)に入り、
六年熊谷県、
九年埼玉県、
十二年入間高麗郡役所々轄、
十七年堀兼村青柳加佐志、
東三木を加へて、
北入曽外五村連合となり、二十二年に至て三村を以て入間村を編成す。
此辺古の武蔵野にて、堀兼井、迯水、月見野等の名所少からず。
古来歌に詠まれ、詩に賦せられて、如阿に風流閑士の心膓を湧躍せしめたりけん。
今其跡を尋ねんとするに堀兼井は宛として彼の迷宮の如く、迯水は彷彿として是謎なり。
迷宮解けず、謎悟る能はず。
歌人は寧ろ之を心曾して、黙笑すベく、史家は冷灰の手を伸ばして悉く之を昧殺せん。
堀兼井の弁は堀兼村の条に出し、迯水は本節の末項に説明せり。
月見野に至ては特に説述を要せず。
南入曽は村の中央とも称すべく、不老川を以て、北入曽と戸数百二三十。
御岳堂と称する処にあり。
元御岳社ありて、社伝に天正六年四月の創立と称し、風土記に慶長二年十石の朱印を下賜せられ、古社にして近き頃まて文明二年庚寅三月惣旦那と鐫たる鰐口ありと記せしものこれ也。
明治四十年五月三日、同村の天神社、稲荷社、神明社を合し、四十四年水野の浅間神社を合祀して入曽、入間、水野の各一字を撰て入間野神社と称す。
社地広濶、社殿堂々たり。
入間野神社を去る二町弱、新義真言宗にして多摩郡成木村安楽寺末、御岳山延命寺と号す。
維新以前は御岳社の別当也。
寺伝によれば天文二年深悦沙門の創立にして、深悦永禄九年寂せりと云ふ。
其墓存す。
慶安二年十石の朱印を附せらたり。
明治三十八年火災に罹り、四脚門及土蔵を残して、余は皆焼失せり。
之を以て翌年仮本堂を立り。
境内に薬師堂あり。
或は曰く堂は院よりも古しと。
金剛院の後にあり。
金剛院の後、竹林中に堀兼井跡あしりと称す。
今は全く弁ずベからずと雖、風土記にも出て、又一二の古書にも見えたり。
北入曽は村の西北部を占む。
不老川を以て南入曽と境せり。
戸数百余。
中原にあり。
入間野神社の北、約一町余のみ、建仁二年の創立にして、天正二年及宝永三年の再建と称すれども、創立年代疑ふべし。
明治四十年部落内なる蔵王社、稲荷社、愛宕社、八雲社、神明社を合祀せり。
社殿新設に係り甚だ清潔、社地も狭からず、殆ど入間野神社と匹敵するに足る。
中原にあり。
高麗村聖天院末、厳王山観音院と号す。
創立不詳。
明治十八年火災に罹り、二十年再築す。
不老川の北に沿へり。
観音堂の後に大なる円形の窪地あり。
深さ一丈余。
周囲十五六間もあるべし。
之れ螺状を為して水際に及べるものなりと云ふ。
土人或は之を以て堀兼井に擬せり。
堀兼井に関する詳説は堀兼村の条に出づ。
古来有名なる武蔵野の迯水は水野にありとせらる。
源俊頼が、「東路にあるといふなる迯水の、にけかくれても世をすごす哉、」の古歌に詠はれてより迯水の名所たると大に知られて、然も迯水の何物たるやは殆ど捕捉する所を知らざる也。
諸説紛々たり。
従て古より武蔵野の古蹟探究家は何れも極力之を明にせんと秘めたりき。
街道旧蹟考と名所考の記す所参照すべし。
旧蹟考に曰く迯水は蒸気也。
春の麗なる日地気蒸れて、遠く之を望めば草の葉末を白く水の流るゝが如くに見ゆるもの也。
そこへ至れば影なし。
三四月迄の事なりとぞ、と。
名所考に曰く、迯水は水にあらず、曠々たる原野に此方より見れば草の末の水の流るゝ如く見やるが、其処に行て見れば水なし。
而して又向ふに水ある如く見ゆるなれば、行程先へ迯行く様なるを以てなりと云ふ、と。
二書必ずしも全く一ならずと雖、仮りに之を蒸気説と名けん。
名所考に曰く、「宮寺郷と云ふ所に不老川あり。
畑の方より湧いて川となり、夏の大雨にて出水の節は怪我人等あり。
毎年大晦日に至て水流るゝとなし」と。
旧蹟考は曰く、武蔵野地名考に言ふ。
「或人霖雨の頃武厳野を行くに野路の外なる処は水湛えて通ひ難し。
野中を行けば何処とも無く水流れて、草根沼の如し。
此頃往復の人定ならず。
道を此処彼処とさまよひ、水無き方に渡す。
武蔵野の人皆知れる所にして、八九月頃霖雨に偶ひては必ずあるとなり。
これなん迯水の迯かくれても云々と符合するとにや。
又一説に不老川は年末に水絶ゆる故迯水なりと云へど、こは迯水にあらず、渇水なり」。
と。
要するに以上を出水説と名けん。
以上二説は必ずしも地点を定めざるもの也。
名所考に曰く、水野村と云ふ所に郷染(けずみ)水野忠助と云ふもの居屋敷に小川あり。
藪の中に流れ入り地中に染み込で流の末無し。
余偶々忠助の家に至り見るに小川あり。
源はこれも宮寺郷の辺より起り、流るゝと二里許なり。
今は藪はなくて、川の末堀切てあらはに見ゆ。
その五間ばかり上、鍵の手に折れたる辺まては潺湲たる流なれど、堀切の処に至れば、水止で其行衞を知らず。
其源を問へば、僅に三尺余ばかりなりと云ふ。
水野村元新田地にして人家もなかりしを忠助が先祖はじめて開きしとなん、と。
三説何れも得失あり、殊に迯水の歌其ものが、既に曖昧也。
然れども、強いて三説の中一を撰ばゞ第三説を可なりとすべきか。
因に武蔵野話は著者其地に住して、実見し実聞したる処なりとて曰く、「迯水、一体は原中の気にして、夜中土中より蒸し昇りし靄(もや)の一面に引き渡りたるを風にて地上に吹きしく故、自然に白く水の如く見ゆるなり。
彼方より来る人を見れば、腰より下は靄にて見えず、水中を渡るかと疑はる、朝辰半時になれば陽気盛となり、次第に靄消ゆ。
之を迯水と云ふ。
又夕方申半時頃より又見るとあり。
三月末、四月上旬の頃は人の見るとなれど、家居多き処には打てなきとなり。
昔より言ひ伝ふるは多摩郡小金井の辺より田無の辺まで、原にて度々見たりし人ありしと。
近比は野老(ところ)沢の原より北に、留、永井の交の野又は留より北、大野にて折々見るとあり。
」と。