柳瀬村

総説

現状

柳瀬村は郡の東南隅に位し、所沢町の東一里半ばかりの処にあり。

西は松井村富岡村に接し、北は三芳村に隣り、東は北足立郡大和田町にして、南は東京府北多摩郡清瀬村の地也。大和田町より所沢町に達する街道、村内を横貫し、東西一里五町、南北一里内外、戸数四百三十九、人口二千九百四十四あり。坂之下本郷亀ヶ谷日比田南永井の六大字より成る。

柳瀬川は村の南境をかぎり、谷戸川は所沢松井方面より来て、日比田亀谷の南を流れ、坂之下の中間を流れて、柳瀬川に入る。柳瀬川の沿岸土地低く、水田あり。余は大低高燥、些少の丘陵あるのみにして、麦畝菜園相連り、雑木林も多し。 土質壌土を主とし埴土もありと云ふ。農を以て主なる生業となし、麦、甘藷、米、爪類、豆類等の産あり。近来は養蚕、製茶の副業盛にして、生糸の産額少からず。織物醸造等の業も亦行はる。

沿革

柳瀬の名は後北条氏より徳川初期の交、庄号に用ゐられしと称すれども、未だ古書に見えず。郷名を安松と言ふ。(但村の北部は安松郷に入らず)柳瀬川の沿岸は夙に開け、鎌倉時代には恐らく聚落をなせしならん。其後南北朝戦国時代を経て、小田原時代に至り、八王子城主北条氏照此地方を管したるが如く、此地に支城を置き、寺院を新設し、若くは再興し、柳瀬沿岸の文化漸く開けたりしが、徳川時代に及で、此勢は益々進み、殊に南永井亀谷の二村も開墾せられて、殆ど今日の体裁をなすに至れり、江戸時代並明治維新の後も屡々所管の変更ありしが、明治四年入間県(二大区三小区)六年熊谷県、九年埼玉県、十二年入間高麗郡役所の所轄となり、十七年坂之下藤久保連合に、南永井日比田亀谷本郷南永井連合となり、二十二年柳瀬村を組織す。

坂之下

坂之下は村の東南に位し、川越東京街道の西三四町の処にまで及べり。 人家八九十戸、土地高台より低地に下る坂路に当り、隣村より来れば、坂の下と称するとを得べし。 東西五六町南北七八町、北方に坂之下新田あり。 天正以後支配地たり。明暦二年村地を分割して、一部采地となし、支配地采地並存したりしが、明治元年何れも武蔵知県事の所属となり、同二年品川県となり、尋て韮末社山県に転じ、四年入間県に属す。

天神社

村の東部に位し、二軒家と称する処の西南にあり。周囲は田圃相連り、境内雑木に混ゆるに杉檜を以てす。樹木大ならずと雖、亦田間の一小区也。末社には神明、稲荷、熊野、氷川等あり。別に御獄祠をも設く。

古老の口碑に曰く、付近に清水湧出する所あり、天禄(円融天皇の御宇に当る)年代此処に水神を祭りしが、二百十余年を経て文治元年地異あり、祠宇破損せしかば、同三年修繕を加へ、且今の地に遷し、並びに菅公を祀りて、田中の天満宮と呼べりと。天禄文治の年代何によれるやを知らず、降て永禄五年社殿改築の事あり、寛文四年地頭羽田氏より下田六畝の寄進あり。天保年末再建の議あり、弘化元年に起工し、嘉永元年に成れり。水神の号夙に消失し、天満宮の名一般に行はれしが、明治二年天神社と改称し、五年村社に列せらる。四十一年村内の無格社全部を此地移転せり。

東光寺

天神社より小徑をとりて西南行し、大和田所沢街道に出づれば、直ちに一寺あり。医王山東光寺と云ふ。門を入れば桜樹八九本先づ迎へ、本堂の茅葺屋根甚だ高きを見る。堂の講造も稍古風也。堂の右手に荒廃せる小堂あり。後の中崖に金刀比羅の祠を設け、傍に額堂もあり。崖上に住僧の墓あり。開山大和尚ヽ丶禅師慶長十九年七月廿五日、中興丶丶和尚寛永八年丶丶丶丶など記したる石塔立づ。崖下馬頭尊の傍二小板碑あり。一は貞治二年十月八日□賢と記し、一は理生台女正長元年四月九日と記されたり。曹洞宗、永源寺吾妻村久米)末、世代今に二十六世なりと云ふ。

城は坂之下の西南に隣り、古、北条氏照に属せし城塁ありしを以て村の名称となせりと云ふ。此地は其始本郷を通じて一村なりしを、城塁を設くるに及で、民家を本郷に移しぬ。其後廃城となるに及び、復本郷と合して、城本郷と称し、正保年間の国図にはしか記されたり。然るに正保以後元禄に至るの間、既に分れて二村となり、今日に及ぶ。人家六十余、天正以後貴志八郎右衛門の采地(田園簿二百獣石城本郷)となりしが、元禄五年支配地となり。明治以後坂之下と同一の所属を経て今に及べり。

城蹟

村の南に当て、人家の穡内、竹林の繁れる処、残壘あり、残濠あり、少しく進めば、土手稍々高く、堀稍々深くして、やがて本丸と覚しき一廓に出でん、此処は南柳瀬川沿岸の低地にして、遠望に便に要害可也。北条氏照の居城と称すれど、実は其幕下太田氏の持城にて、天正十八年八王子城陥落の際、城主太田氏も其地に籠りしかば、本城の如きは自ら落城せしものならん。風土記に攻城の伝説を載たれども如何にや。城墟は東西三町二十間、南北一町三十間、周囲十町に及ぶ。地形凸字をなし、本丸の断崖高さ五丈余。今此処を称して本陣山と云ふ。愛宕神社を祭れり。本城起原に関しては到底知るべからずと雖、伝ふるものは曰く、昔治承四年源頼朝挙兵の時、土豪某之に応じて此城に拠ると。信ずるに足らず。思ふに小田原記に武州本郷地主太田下野守とあり。下野守は太田道灌の孫氏資の族也。城の成れる恐らく其頃にあるべし。永禄十年八月太田氏資上総に戦死し、一女北条氏政の二男氏房を請ふて聟とし、太田十郎と号す。此に於て太田氏全く北条氏に帰せり。

城山神社

城墟にあり。元無格社にて愛宕神社と称せしが、四十一年十一月天神、熊野、八幡の三村社を此処に合祀し、城蹟に名をとりて城山神社と命名せり。合祀神社の中にて八幡社は本城の鬼門鎮守として、天正年間創立せし所にして、寛永十二年十二月四日地頭貴志氏の再建なりと梁簡に見えたり。

天神社は城内の鎮守として、設けられし処。愛宕社は天正十八年城陷り、住民復するに及び、後十数年を経て、本丸に建設せるものにして、武蔵野話に、神体は立烏帽子を冠むれる馬上の石像にて、丈一尺許、不調法の細工なれど古雅なり。城主太田下野守の像なりと云ふ。と記せるもの是也。又熊野神社は承暦の頃(白河天皇の御宇)の創立にて往古一村の鎮守なりしが、築城以後煙滅に帰せしを、慶長年間再興せしものなると、曰碑に存せり。社の傍に稲荷、御岳等の小祠あり。

武蔵野話に曰く、城村に寺院なく、本郷村に真言寺にて水木山東福寺と云ふあり。城村の人家みな其檀越なり。と。坂之下に近き路傍の雄木林中、権大僧都法印ヽ丶墓と刻せる数基の墓石立てり。此寺名を龍蔵院と称し、恐らく修験なりしならんか。今は其蹟を見ず。

本郷

本郷は村の西南に接す、或は本郷の名、安松郷の本地たりしに基くか。但今は安松の村名却て枝郷の地に冠せらる。元村と一村たりしが、其後分合ありしと、前に述べたり。天正以来の変遷村に同じ。

氷川神社

明治四十一年三月まで、松井村大字下安松に鎮坐し、元来本郷村の鎮守なりしも、何れの頃よりか本郷安松両村の鎮守として、両大字にて祭事を行ひ来りしが、氏子一同合議の上、安松と分離し、本郷の中央なる無格社八雲神社に合祀し、村社氷川神社と称せり。伝ふる所によれば氷川神社は遠く寛平の頃(宇多天皇御宇)創立せられしが、当時の社殿は柳瀬川永川下にありて微々たる一小祠に過ぎざりし也。其後治承年間修繕を加へしも、水害頻繁なりしかば、寛永元年両村氏子和議り、近傍の高地に遷せりと云ふ。今の社地は崖上にあり、二条の石階之に導き、石階の間老杉直立天に冲せんとし、藤羅之に纏へり。別に八雲社あり、八雲社は本来の産士神也。

東福寺

村の中央に位し、氷川社の西二三町を隔てたり。真言宗にして、水木山東福寺と称す、青梅町金剛寺末に属せり、本堂古雅也。古老の口碑によれば、行基菩薩の開山なりと称すれども探るべからず。又開祖聖宝尊師延喜九年七月六日入寂なりと云ひ、応和、康保、安和、永祚年間の古碑今尚存せりと称すれど、真偽詳ならず、中興法流開山と称せらるゝ観真に至ては元禄十二年十二月十一日入寂の証あり。改宗以後今に至るまで十八世也。堂の東に成田山の殿宇あり。傍には薬師の小堂、乳不動等あり。信者少からざるが如し。墓地は本堂の西にあり。

武蔵野境塚

慶安二年四月川越領主松平信綱が置きし所の武蔵野守と村民との間に争論起り、為に幕吏其他を踏査して、地境を画し、塚を築き、樹木を植えて以て境界とす、其塚今も尚存し、境塚と呼ぶ。当時六奉行連印の判決書、本村の旧家木下氏に蔵せり。其後貞享年間、武蔵野に就き再び訴訟起り。多年結ぼれて解けず。里人今に伝へて武蔵野訟訴と云ふ。

鎌倉街道

鎌倉時代、此地より鎌倉に達する道路あり。今僅に田徑として存す。

亀ヶ谷

亀ヶ谷は本郷の北、坂之下の西に位し、万治二年開墾の地にして、元は亀久保村飛地の字名なりしと云ふ。慶応三年正月支配地となり、明治元年武蔵知県事に属し、以下前村に同じ、其地東西八町、南北四町余、人家三十五六戸、村役場は此処に設けられたり。

亀谷神社

村の南にあり。永禄年間の創立なりと伝へ、明治初年までは亀谷稲荷大明神と称せしを、明治二年亀谷神社と改称し、五年村社に列せらる。

普門院蹟

普門院は新義真言宗多摩郡成木村安楽寺末にして、亀谷山と号せしと云ふ。今其寺なし。其蹟も詳ならず。

日比田

日比田は亀谷の西に位し、東西六七町、南北十余町、戸数八十あり。天正以後支配地たり。明治元年武蔵知県事、二年品川県に属し、尋で韮山県管下となり、四年神奈川県に入り、十一大区七小区戸長役場を本大字外六大字連合にて清瀬村大清戸に置き、久しく多摩郡の地として継続し来りしが、十三年三月十日地勢の便に従ひ、入間郡大岱村と換地となり、埼玉県入間郡となり、十七年七月南永井連合戸長役場に入る。

氷川神社

天正八年三月の創立なりと伝ふる外詳ならず。明治五年村社に列せらる。

南永井

南永井は亀谷の北に当り、東西に連れる大村落にして、東西三十町、南北四五町、人家八十戸、其構造皆大也。徳川初期の新開地にして、延宝三年松平伊豆守の検地あり。宝永二年以後支配地となり、本郷と同一代官を載て明治の世となり、武蔵知県事、品川県、入間県、熊谷県を経て埼玉県となり、十七年南永井連合戸長役場に入る。

村名の起原は明ならず。長井と記し来りしが、寛文九年正月北長井と分て、南長井と改め、更に永井と記すに至れり。

備考

別種の伝説によれば、此地は貞享の頃上州新田郡下田中村農市郎左衛門の三子父命を受けて来り開きし処、後市郎左衛門、新田若宮八幡の分霊を奉戴し来て、此処に祭れりと云ふ。其後来住するもの年に増し、遂に一村をなすに至れりと、此説に従へば延宝三年検地説非となる、余は寧ろ検地説に従はん。

八幡社

村の中央にあり。元禄年間の創立也。村の草創上州新田郡の市郎左衛門が奉戴し来れる処にして、開墾功を奏し、一村となるに及び、寛延の頃社殿を再建し、鎮守として崇敬せりと云ふ。明治五年村社に列せらる。

甘薯の起原に関する伝説

此辺の名物たる甘薯に就ては既に世に著しと雖、其起原に関しては諸説あり。村内吉田氏淳造の家に伝はれる処によれば、寛延四年二人の男女薩摩より逃れて、此地に来り、篤き介抱を受けたる謝礼として甘薯を遺せりと云ふ。其説委曲に渡り頗る小説的興味多し。藍し甘薯起原の一説話として、無かるべからぎる所のものに属す。

富ぢやとうなす、永井ぢやさつま

日比田亀谷まくわうり……村内俗謠の一